私の登校拒否体験

 少年時代に登校拒否をしたことのある校長は、私くらいのものではないだろうか。自慢になることではないが、恥を忍んでその想い出を語ることにしよう。もしかすると最近の親御さんの参考になるかもしれない。
 私は五歳の時に母に死に別れた。それまで我々の家族は、北海道の昭和炭山という山奥に住んでいた。雪深く厳寒の地域であるが。冬になると電信柱が雪に埋まり、我々は電線をまたいで歩いた。電線に腰掛けたりぶら下がったりしてはいけないと注意されるほどの豪雪地帯であった。秋には熊も時々出たらしい。妻に死なれた父にとり、この山奥の炭坑は耐えきれない場所であったらしい。思えば父も若かった。彼は当てもないまま炭坑を辞め、「放浪の旅」に出た。おかげで私は、小学校一年の一学期に二回転校を経験することになったのである。
 私は積極的な少年であった。何しろ小学校の入学式に、姉が同行するのを待ちきれず、一人で学校へ行ってしまったのだから、積極性もいささか度を超していたのであろう。もっとも「義男が行ってしまったから」というので、そのままほったらかしにした姉も相当なものである。
 しかし、一学期の間に二回学校を変わるというのは、それなりに大変なことであった。
 最後に落ち着いた小学校一年の七月、私はふとしたことから腎臓炎を患った。夏休みを挟んで相当の期間学校に行くことができなくなったのである。
 二学期が始まってしばらくした頃、病も癒え学校に通えるようになった私は、久々のランドセルを背負って、初秋の日をまぶしく感じながら学校へ向かった。
 ところが、近所の「八郎ちゃん」が、「小川、お前なんか学校に来るな。おまえが学校に来たって、もう机も腰掛けもないぞ。先生が『小川さんなんて学校に来ない方がいいよね。』って言ったら、みんなが『うん』て言ったぞ」と言うのである。私は驚いた。永いこと学校に行っていないのだから、それは確かに、もう机も腰掛けもないだろうなと思った。みんなが来ない方がよいと言ったというのである。私は、学校には行かないことにした。
 実は、発病の前、私は掃除当番の班長であった。北海道では「当番長」と言う。それを八郎ちゃんは、私が休んでいる間代わってやってくれていたらしいのである。病み上がりの子供に班長をやらせる先生などいるはずもないのだが、八郎ちゃんも幼いから、その辺の呼吸はわからない。彼は当番長を私に取りかえされると思ったのである。 学校に行けない私は、校舎の裏の草むらに隠れて教室を覗き見る毎日には、正常な学校生活とは別な味わいがあった。
 驚いたことに、裏の草むらには、学校を隠れ休みしている仲間が沢山いた。しかも彼らは、「俺は昨日学校に行って来た」とか、「おととい行った」とか言うのである。尋ねると、机も腰掛けもあったという。私は、「俺は机も腰掛けもないから学校に行けないんだ。お前、昨日行ったんなら、今日も行けばいいじゃないか。どうしていかないんだ。」と、しきりに上級生たちを「善導」した。後年教師になるだけあって、私は「善導する登校拒否児」だったのである。 中には女の子もいた。そのころの「登校拒否グループ」には、後で名の知れたやくざになった者も少なくなかった、私も危ないところだったのかもしれない。
 学校の裏の草むらに誰もいない日もあった。みんな学校に行ってしまったのである。「机も腰掛けもない」私は、行けないのだから寂しかった。ひとりで草むらに隠れていても仕方がない。私は他の場所を探索することにした。
 町中をうろついている間に公園に行きついた。それまで私は公園なるものを全く知らなかったから、これはもう夢の国に違いないと思った。滑り台、遊動円木、回旋塔、とにかく沢山の遊び道具がある。田舎育ちの私には、大人がこんないたずらみたいな物を造るはずはないから、これは絶対に夢の国だと思った。おまけに池にはボートまで浮かんでいる。何とすばらしい所であろうか。
 農村人口が八割を占めていた時代である。公園で遊んでいる大人などいなかった。小学生が来るはずもない。公園は文字通り私一人が占有できる場所だったのである。
 遊園地に連れて行ってもらうことなどほとんどない時代だったが、この隠れ休みしている期間、私は公園の遊具を存分に楽しんだ。おそらく人の一生分くらい楽しんだのではないだろうか。そのためか私は、今でもディズニーランドに行きたいなどとは思わない。偽パスポートを使って我が国の「ディズニーランドを見たかった」どこやらの「ご令息」とは、そもそも幼児体験の総量が違うのである。
 雨の日には滑り台の下に雨宿りしたが、少し激しくなるとそうもいかない。そんなときは、池のそばに伏せてあるボートの下に潜りこんだ。時にはそのまま眠りこけてしまうこともあった。
 ある日姉が私のノートを調べた。学校に行っていなかったのだから、まっさらである。しかし善良な姉は、弟を疑うことを知らない。先生のおっしゃることや黒板にかかれたことはしっかりノートに書かなければいけないと叱るのである。危機感を感じた私は、毎日滑り台の上で2時間ほど算術の問題を解き、国語の教科書を書き写すことにした。しかし、危機は再び訪れた。こんなに勉強が進む学校はおかしいと姉は言うのである。「そうだよ。僕の学校は勉強が早いんだよ。後で何回もやり直すんだもの。」嘘にはさらに嘘を重ねなければならない。胸は少し痛んだが、何しろ先の見通しなどない年頃だから、急場を切り抜けさえすればよいという有様であった。
 困ったことが起きた。だんだん寒くなってきたのである。北海道の10月は、耐え難いほど寒い日もある。だがよくしたもので、その季節になると、停車場のストーブに火が入った。私は、日がな一日を駅の待合室で過ごすことにした。近くの家のゴミ箱を探すと、沢山の本が捨てられてある。表紙も裏もとれてしまっているものが多いのだが、それでも、アラビアンナイトとかイギリス童話とか、内容の素晴らしいものが少なくなかった。私の知識や話題に、いささかゴミ箱の臭いらしいものが混じるのは、その時の後遺症である。
 線路に入り込み、列車の間をすり抜け、もぐり抜けて遊んだ。台車の下についているハンドルを引くと、シューとエアーの抜ける音がした。50台以上もある列車のエアーを全部抜いたこともある。しかしこの「優雅な毎日」は、思わぬところで破綻した。列車のいたずらから帰ってみると、何と待合室のベンチの上に置いてあったランドセルがないのである。ランドセルには「タキイチイチノイチ オガワヨシオ」と書いてある。「滝川第1小学校1年1組 小川義男」というわけである。
 かくして私の登校拒否体験は悲劇的結末を迎えた。ランドセルが学校に届けられてしまったのである。
 私は裸にされて松の木に縛り付けられた。息子が何よりの自慢であった父にとり、それはどれはど悲しいことであったろうか。父は人通りが途絶えた頃、裸の私に腰縄をつけて「石狩川に漬ける」ため歩かせ始めた。「漬ける」とはどんなことか分からなかったが、恐怖に怯えた私は、「助けて」と叫んだ。近所のおばさんたちが出てきて、泣くようにして謝ってくれた。「よしおちゃん、もうしないよね。」と。
 「昔の先生はよかった」などという人がよくいるが、私はそうでもないと思う。転校してきた1年生が、2か月も学校を隠れ休みしているのに、情報が入らないはずがない。しかし担任は、家庭訪問はおろか、手紙一本家に出さなかったのである。
 「今の先生は良くない」という人が多い。そうかも知れない。しかし私は確信を持って言うが、1週間子供が学校に来なくて、何らかの動きを起こさぬ教師は、今の学校には絶対にいない。
 私はその後さぼらず学校に通い、まあまあ真面目な大人に育った。ずいぶん悲しい体験ではあるが、それも教師となった今では、貴重な体験だったと思う。非行に走った生徒に対していて、彼あるいは彼女と、実は仲間であるという実感が、私の心のどこかには隠れているからである。
 「ばれた」後、学校に呼び出された父は、担任に、「先生、こんな子は石川五右衛門のようになるのではないでしょうか。」と尋ねた。先生は、「そうでもないですよ。」と答えたという。父は、私をひっぱたきながら、先生のその言葉を繰り返した。「石川五右衛門のようになるのではないでしょうか、と言ったら先生は、そうでもないですよと言った。」と何度も何度も繰り返すのである。20歳を過ぎたか過ぎないの娘っこ教師の言うことである。当てになどなるものか。しかし父は、せめてもの救いをその言葉に求めたのか、「そうでもないですよと言った」と、呪文のように繰り返しながら私を殴るのである。
 新任教師を対象とする講演などの際に私は、しばしばこのことを語るのであるが、語るたびに、つい涙にむせびそうになってしまうのである。

夜空に星が多かった頃

 私が六年生の頃、敗色濃いアメリカとの戦争の末期、父は家から十二キロほど離れた原始林の中に「三角兵舎」を造るために、職人さんたちと一緒に出かけた。どんな事情で父に会いたくなったのか、そのあたりの記憶はないのだが、とにかく私は、歩いて父のもとまで行くことにした。
 「三角兵舎」とは、半地下式の戦闘用兵舎である。地面に長方形の穴を掘り、その上に材木を三角に組んで屋根を造る。その屋根に更に五十センチほどの土を載せる。半地下式だから、爆撃されても直撃でない限り内部の兵士は助かるわけである。
 当時の小学生にとっても、十二キロは簡単な道のりではなかった。 昼なお暗い原始林に入ってからは、怖さも混じり後悔し始めたものである。歩いているうちに、日はすっかり暮れてしまった。手探りで歩く原始林の怖さは、今も私の記憶に鮮烈である。それだけに、前方に灯火がチラチラ見え始めたときの嬉しさは格別であった。
 「兵舎」の中では、仕事を終わった職人さんや人夫の人たちが、それぞれ焼酎を飲んだり花札をしたりしていた。みんな少年の私を見て驚いたが、間もなく「小川さん、息子さんがきたよ」と、すでに横になっていた私の父に知らせてくれた。息子の意外な出現は、父にとり嬉しかったようである。しかし、感情を表に出す人ではないから、淡々と私が、どうして急にこんな遠いところまで歩いてきたのかと尋ねた。
 仕事を終わった人たちの飯場の雰囲気は、私にとりとても馴染みやすいものであった。夜も相当更けたことだし、私は当然その日は飯場に泊まり、翌日遅れて学校へ行けばよいものだと思っていた。丁度十一時頃だったろうか、父が、「義男、もう遅いから、お前そろそろ帰れ」と言ったのである。驚天動地とはこのことである。六年生の少年が、深夜の原始林を越え、十二キロの道をどうやって帰るというのであろうか。
 季節は晩秋だから、熊が出るかも知れない。しかし、父は厳しい人であった。泣けば泊めてくれるというような生やさしい人柄ではなかったのである。それをよく知っている私は、べそをかきながら立ち上がった。「途中まで俺が送ってやるからな」、そう言うと父は私を先に立たせ、すたすたとついてきた。手を後ろに組んでいるのだが、その手に何か大きな枝を持っているようであった。しかし、闇の恐怖に怯えている私に、それが何であるかなど考える余裕などない。
 小一時間も密林を歩き、幅広い国道に出た。父はそこで、気長に道路脇の材木に座って私と話をしていた。私は父の真意を測りかねていた。そのうちに一台の馬車が近づいてきた。父は、その馬車追いに、どこまで帰るか尋ねた。その人が私の家のある町まで帰ると知ると、「すまないが息子をそこまで乗せて行ってくれ」と頼んだのである。私がほっとしながら馬車に乗り込むと、父は後ろ手に持っていたひと枝を私に渡し、「これでも食いながら行け」と行った。
 それは、実が重いくらいに沢山ついている「こくわ」のひと枝であった。「こくわ」は、北海道の山に生えるもっともおいしい食べ物である。大きなもので大人の親指くらいの大きさであろうか。実が青くてふにゃふにゃしている。甘いというか、酸っぱいというか、それが適度に混じり合って、とてもおいしいのである。私は世の中に、あれほどおいしい食べ物は他にないと、今でも思っている。たやすく手に入る山葡萄とは異なり、深山に入らなければ手に入らないので、そんなに沢山の「こくわ」を食べたのは、そのときが初めてであった。
 馬車に揺られながら、時折馬車追いのおじさんの問いかけに答えたりしながら、私は「こくわ」の実を食べ続けた。
 ふと空を見上げると、信じられないほどの数の星が煌めいていた。天の川などは、それこそ、かご一杯の銀の粉をぶちまけて、竹箒で掃いたように輝いている。「こくわ」を食べる以外にすることのない私は、じっと夜空を眺め続けた。流れ星が、次々に流れて行く。それまで私は、流れ星は、滅多に見られるものではないと思っていたのだが、三時間も馬車に揺られ続けている間に、ほとんど絶え間なく星が流れているのに驚いた。今とは比べものにならないほどに夜空が澄み切っていたのか、当時の田舎には、明かりらしい明かりがなかったからなのか、あの夜の星の美しさは、自らその後の人生に影響を与えたのではないかと思うほどに美しいものであった。
 それから五十年の余、無骨ながら深く私を愛した父はこの世にない。ずっと長ずるに及んでから私は思うのだが、あの夜、父は深夜の原始林を歩いて帰って怖くはなかったのであろうか。当時私にとり父は絶対の存在であったから、恐怖などとは無縁のはずの人であった。しかし、自分も十分に年を取った今、人間は、幾つになっても、決してそれほど大胆になれるものではないことを知っている。また、はるばる遠くまで父を慕ってきた息子を、深夜の路上に追い返す父の心がどんなものであったか、今の私にはそれも分かる。
 親の心が分かるのは、自分が親になってからだと、よく言われる。結局親心というものは、子供を育てている間には分かってもらえないものなのかも知れない。
 私の教え子たち一人一人にも、その父、母との、珠玉のように美しい思い出があることであろう。しかし、私のように、親に死に別れた後に、しみじみ懐かしいと思うのではなく、できればご両親が元気なうちに、そのありがたさや優しさが分かる人間に育って欲しいと願うのである。
 せめて父の存命中に、あの夜の「こくわ」がおいしかったことくらいは語っておきたかった。今私はそのことを後悔している。

(「学校崩壊なんかさせるか」より)

中学校義務制の再考を

■登校拒否でも卒業できる不公平■
 教育基本法の改正が、いよいよ国会レベルの日程に上がろうとしている。様々な論議の中で、意外なほど論じられていないのが、義務教育年限の問題である。
 現行教育基本法は、次のように定めている。「国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う」(教育基本法第四条第一項)
 私は、これを小学校卒業までの六年間にとどめればよいと考える。
 教育に対する国民の熱意は、明治初年の学制実施当時とは様変わりしている。明治初年はおろか、私が中学校代用教員に奉職した昭和二十六年当時においてすら、農家の娘が高等学校に進学する事など考えられなかった実情であった。男子の場合も、親をよほど説得しなければ高校に進学させる事ができなかった。「百姓の娘に学問は要らぬ」「女に学問などさせたら、ろくなものにならぬ」そんな言葉が、ごく普通に交わされていたのである。
 農地改革の結果、小作料を支払わなくても済むようになったが、それでも生活は苦しかった。田植えも 稲刈りもすべてが人力に頼るという時代だったから、農繁期には、中学生の労働力が当てにされた。従って、学校を休んで農事に励む中学生も少なくなかったのである。
 だが今は違う。親たちの教育熱は、史上例を見ないほど高い。高等学校は義務教育ではないのに、その高校への進学率は、現在九十七パーセントを超えている。事実上「高等学校の義務教育化」が達成されているのである。一時高校を義務制にしようという声が囁かれたが、そんな事をせずとも、中学校卒業生のほとんど全員が、高校に進学する時代がやってきているのである。
 明治初年のように、保護者が我が子を学校に通わせたがらない時代であればこそ、義務教育制度は重要な 意味を持って来る。だが、教育に対する理解が深まり、熱意も高まって、法の強制などなくとも、親のすべてが、 「その保護する子女に」「高等普通教育及び専門教育」(教育教育法第四一条)を施す時代が到来しているのである。それでもなお我々は、古色蒼然たる義務教育制度にこだわり続けるべきであろうか。
 今、中学校を義務教育から解き放つ事は、最近深刻になってきている登校拒否問題にも、良い影響をもたらすと私は確信する。「登校拒否」などと言ってはいけない。「子供は、学校に行けないのではなく、行かない事を選択しているに過ぎないのだ」などと言う「温かい」意見もある。それがあらぬか、最近では、「登校拒否」ではなく、「不登校」と呼ぶのが正しいのだそうである。しかし、そこまで遠慮する事は、果たして本当に、当該の子供の幸せにつながるであろうか。私などは、大人になって、「職場に行かない事を選択」する癖がついたら大変だと、つい、心配になってしまうのである。
 難しいのは、そのような登校拒否児の、「進級、卒業の認定」である。実態は、ほとんど学校に来ていなくても、進級、卒業させているというのが本当のところであろう。
 私の学校の場合は、欠席が「出席すべき日数」の四分の一に達した場合は、進級が保留される。その場合は 、生徒の個性や、抱えている様々な事情を考慮して、進級の可否を判断する。欠席が三分の一に達した場合は 、絶対に進級させない。これは、校長である私でも動かす事ができない。
 公立小中学校の場合、ほとんどのケースで進級、卒業させているのは何故なのだろうか。「卒業させない」などと言えば、「不登校の原因を形成した責任は学校にある」などとして、訴訟に持ち込まれる可能性がある。教育委員会は、すべてを校長に丸投げし、校長の責任でよろしいようにやれというのが本音なのではないだろうか。私も公立学校は長いが、教育委員会が、「甘すぎる卒業判定」を、厳しく指摘したという例は、聞いた事がない。
 かくして、正義の一角はもろくも崩れる。学校になど来なくとも、「保健室登校」に終始していようとも、とにかく全員が卒業できる。「正直者が馬鹿を見る」とまでは言わないが、少なくとも公平、公正が貫かれている状況ではない。こんな事で、子供を健全に育てる事ができるものであろうか。
 小、中学校が、義務制の教育機関だからと言って、学力もなく、ほとんど登校してもいないような子供を、進級、卒業させねばならぬ理由は少しもない。仮に不登校を来した原因が学校にあったとしても、その責任と進級、卒業の判定とは全く別の問題である。何年かかろうと要件は充たせるし、それができなければ卒業させないと言うのは、絶対に譲ってはならぬ原則だと思うのである。
 実態を理由に建前を限りなく後退させるのは、戦後教育に一貫してみられる傾向であった。それは建前を後退させるばかりでなく、実態そのものを、さらに後退させて行った。今日の教育荒廃は、このような無原則的妥協に胚胎していると思うのである。
 それほど学校に来たくないのなら、小学校はともかく、中学校では、「来たくなければ、来なくても良い」制度に、切り替えたほうが良いのではないだろうか。
 最近の中学校には、相当荒廃している学校もある。教師の手ではどうする事もできず、保護者が全校を巡視しているケースも見られる。
 実は、現在の公立中学校には、内部に非行集団が発生し、乱暴狼籍の限りを尽くしているような状況でも、これに加える制裁手段が全くないのである。義務教育だから、退学にも停学にもできない。殴ったりすれば、「体罰」という事で大騒ぎになる。一部の少年は、学校には何の対抗手段もなく、自分たちは何をやっても、先ず絶対に処罰される事はないという事を確信して、非行を繰り返している。結局教師の間には無力感が漂い、「何もしなければいいんだろう。何もしなければ」と行った気分が漂い易いのである。

■中学校を「勉強したい人が集まる」場に■
 学校は本来、勉強したい人が集まって勉強するところである。勉強したくない人には出て行ってもらわねばならぬ。昔、人種差別が激しかった頃のアメリカでは、黒人の通学が認められなかった。彼らの中の先進的分子は、早朝に学校に行き、教室のそばの木に登り、木の葉に隠れて、「自分たちも利口になろう」と教師の話に耳を傾けたそうである。
 中学生になったら、通学を義務で縛る事などやめた方がよい。学校に行きたくない人には、「学校に行かない権利」を保障してやるべきである。
 高等学校は義務教育ではないのだから、生徒は「来たくなければ来なくとも良い」。私の学校の場合も、年にひとりかふたり、学校に通学したがらない生徒が出てくる。精神的疾患の場合は別として、私は無理に学校に誘引するなと教職員を指導している。実際には、担任が中心になり、必死の努力を重ねて登校させるよう指導しているようである。しかし原則は、「どうしても出て来なさい」ではなく、「どうなさいますか」でなければならないと、私は思うのである。
 小学生の場合は、何と言っても親や教師の指導に従いやすい。その上、学校に行くべきかどうかなど、彼らには判断できない。これはもう、絶対無条件に、学校に行けと指導すべき発達段階である。ごくごく 一部ではあろうが、教育に著しく不熱心な親がいて、子供を学校に通わせたがらないケースも絶無ではない。
 だが、中学に進学する時期の子供は違う。彼ら自身が、自らの将来を相当深く考える事ができる。進学したくない生徒はほとんどいないであろう。保護者のごくごく一部に教育不熱心な者がいたとしても、子供自身の要求もしっかりしてくるから、ほとんど百パーセントに近い進学率となるであろう。現在の高校進学率は、その事を端的に示している。
 義務教育が外されれば、いわゆる登校拒否の中学生も、行かなければならないわけではないのだから、誰はばかるところなく好きな道を選べばよい。義務制であれば、行きたくないと言っても、教師、親、周囲等々、あらゆる人々が、学校に連れ出す努力を重ねる。その事に対する「期待」は、時として責任転嫁の気持ちを生み出し易い。だが今度は、義務制ではないのだから、彼、あるいは彼女自身が、真剣に自らの進路を考えなくてはならない。「何が何でも行け」から、「どうなさいますか」に変わったとき、該当年齢の子供たちは、我々の想像を超えるほどしっかりした判断を下すと私は思うのである。
 また、どうしても中学校に行きたくない人は、何も遠慮する事はない。就職するなり、中学校とは異なる分野で勉強するなり、自ら、納得できる進路を選択すればよい。小学校の基礎さえしっかりできていれば、嫌なのに中学校に進む事はない。勉強は実人生の中でも永く学び続ける事ができる。学校がすべてではない。そもそも、学校が一体何様だと言うのか。
 義務制が外されれば、中学校は、「勉強したい人だけが集まる」場所となる。勉強もしたくなく、集団として最低限の規則に従う事も嫌いな生徒は、自主的に退学するのも良いし、場合によっては退学処分に付す事もできる。中学校は、本来の活力を取り戻すであろう。
 但し、義務教育を小学校までとした場合も、公立の中学校に学ぶ生徒からは、授業料を徴収しないというこれまでの制度は残しておくべきであろう。立法上、多少工夫を要するが、やってできないことではない。
 立法技術としては、六三三制度そのものの抜本的改正との関わりにおいて、義務教育年限を考えて行くべきであろうから、むしろ今回の改正では、第四条そのものを削除しておき、詳細は学校教育法に委ねるのも一つの方法だと考えられる。

(祖国と青年 平成16年 6月号掲載)

 

蚊帳への郷愁

 蒸し暑い夜が続く。このころになると私はいつも薄緑色のあの蚊帳を懐かしく思い出す。今では蚊帳など知らぬ人が多かろう。
 夜ともなると、ぷーんと高い周波数の音を立てながら、蚊は人間を襲った。蚊やりなどをたくが、なかなかそれくらいで退散する相手ではない。手でたたきつぶしたり、うちわで追い払ったりするが、寝てしまえばそれもできぬ。
 結局この季節には、どの家も、部屋一杯に蚊帳をつるし、家族全員がその中に入って眠るのが夏の歳時記であった。
 蚊帳は、目の細かい網でできた大きな四角い袋である。六畳間一杯になるくらいの大きさがある。天井はあるが底はない。布団を敷き終わった部屋に、布団を囲むようにしてこの蚊帳をつるすのである。ひもの先に結ばれた真ちゅうの環が美しかった。
 狭いから、家族全員が身を寄せ合って眠る。暑いから、縁側や窓などはもちろん開け放っておく。布団に寝て、眠れぬまま蚊帳の天井を見ていると、蚊帳越しに月が差し込んできたりする。吹き込む涼風が、蚊帳全体を揺する事もあった。
 最近は蚊も少ない。クーラーや網戸も普及し、蚊帳はすっかり姿を消してしまった。しかし、涼風に吹かれながら家族と一緒に蚊帳に眠ったあのころが、自分の一番幸せな時代だったように思われてならないのである。

(平成16年7月8日付け 東京新聞ショッパー掲載)

少年の日の敗戦

 アメリカとの戦争に敗れた時、私は旧制中学の一年生であった。食料難の時代である。九月初めのある日、私は、姉と一緒に山奥の畑にジャガイモを取りに行った。リュックには、ジャガイモがギッシリ詰まっている。妹の手も引かねばならない。
 空地大橋にかかったころには、日はすっかり暮れていた。北海道第二の川だ。橋はあきれるほど長い。
 その時、後方はるかに、これまで見た事もない強烈な自動車の灯(あか)りが見えた。それも少しくらいの数ではない。
 「アメリカだ」だれかが叫んだ。数百台の米軍トラックだったのである。
 「戦争に負けたら、言語に絶する扱いを受ける」私たちは、そう教えられていた。我々は橋の真ん中にいる。もう間に合わない。必ずひき殺されるであろう。私は妹をかかえ、走りに走った。
 「もう駄目だ」そう思って振り返ったとき、私は自分の目を疑った。何と米軍のトラックは、我々が渡りきるのを待っていたのである。
 「これはだまし討ちかもしれない」私たちは走り続けた。渡りきると、堤防の上から転げ落ちるようにして逃げた。全員が渡りきった事を確かめて、大部隊は轟(ごう)音と共に空知大橋を渡って行った。
 月の美しい夜であった。「彼らも人間だったのか」そんな複雑な思いで立ちつくしたあの夜のことを、秋になると今も思い出すのである。

(平成16年9月9日付け 東京新聞ショッパー掲載)

 

和太鼓の風

 夏も終わるころ、北海道を訪れた。久々にオロフレ峠の霧に包まれたいと思って、千歳から登別を経て洞爺湖へ向かった。
 折からの「温泉祭り」とやらで、登別は、いつも以上のにぎわいであったが、小、中、高校生が、和太鼓で、祭りの行事を盛り上げていた。「ズン ズン タン タン」腹に響く太鼓の音は、旅の愁いを慰めたが、そのうち、言いしれぬ感動が胸底を突き上げてきた。
 子どもたちはみな、白い足袋はだしでバチを握っている。姿勢を変えるため、足を動かすとき、その裏が真っ黒になっているのが見えた。幼い子から、女子高校生まで、眉(まゆ)根の凛々(りり)しさは変わらない。人を感動させるのは、彼らの太鼓打つ心の一途さであろうか。
 和太鼓の美しさは、停止の瞬間にある。次の一撃を振り下ろすため、顔を引き締め、バチを振り上げ、静から動へ移ろうとするその瞬間に和太鼓の美は存在する。
 胸熱くなる思いで私は、日本人の血を思った。この感動の底に潜むのは、祖先を同じくし、同じ米を食って、この列島に育った者のみが有する、日本人の「血」なのだ。
 「十歳違えば異邦人」などと、世代間の違和が語られる昨今であるが、決してそうではない。それはいっときの事、我々の体には、同じ民族の血が流れているのだ。登別を遠ざかる私に、風はなおも太鼓の音を、断続的に運び続けた。

(平成16年10月7日付け 東京新聞ショッパー掲載)

発達段階に応じた教育を

教師や親を絶対的に信頼している小学校低学年には、上長の言に無条件に従う素直さ、服従する心の育成を。

■子どもは大人とは別の生き物
 我が国教育の荒廃は、放置すれば国家の存続が危ぶまれるほど深刻になってきている。だが、何がその原因であるかを巡っては、見解の不一致が著しい。
 「子どもを抑圧する傾向が今日も続いているから荒廃が生じるのであって、もっと伸びやかに子どもを解き放ってやれば、この荒廃は克服できる」とする見解もある。もっともらしい見解ではあるが、これ以上どうやって子どもを「解放」しようと言うのであろうか。
 最近埼玉県で、複数の中学生が、強盗目的で老人を撲殺するという事件があった。こんなニュースに驚かないほど、少年による凶悪犯罪は日常化している。我々は、どこか根本的な所で間違いを犯しているのではないだろうか。
 余談だが、この事件を引き起こした生徒が在籍する中学校では全校集会を開いた。その席で校長は、「事実とすれば残念なことだ」と生徒に語ったそうである。冤罪であろう筈もないこのようなケースですら、「事実ならば」という弁解を付するあたりに、「人権」に対する過度の怯えと責任逃れの姿勢が感じられて、何とも切ない。
 私は、今日の荒廃の本当の原因は、子どもの内面からひとりでに芽生えてくるものに過度の期待を寄せ、教え込んでいくことにアレルギー的な警戒心を抱いた戦後思想にあると考えている。「蒔かぬ種は生えぬ」という諺があるが、我々は、子どもの心に種も蒔かずに、無い物ねだりを重ねてきたのであるまいか。
 ここで考えたいのは、発達段階という発想である。子どもは、大人を小さくしただけの生き物ではない。私は小学校低学年を担当する中で、このことをしみじみ痛感した。
 あるとき私は、長野県の別荘から、ドングリを沢山拾ってきた。いくら一年生でも、こんな物を喜ぶだろうかと不安ではあったが、何かお土産を持って行ってやりたいとの思いから、ビニル袋一杯のドングリを持ち帰ったのである。「お前たち、ドングリ欲しいか」そう言ってビニル袋を示すと、彼等の目の色が変わった。一人に五個ずつくらい配れたのだが、彼等は選んでいて、なかなか後ろの子まで順番が回ってこない。誰々君のは光っているとか、僕のは帽子が取れているとかで、「紛争」さえ生ずる。自然のドングリには、親に買ってもらうおもちゃとは比べものにならぬ「本物性」でも感じるのか、男の子も女の子も、それはもう夢中なのである。その場にいて私は、「子どもは大人とは別な生き物らしい。まだ人間ではなく、これから人間になるのだなあ」としみじみ感じたのである。
 小学生は、三年生から四年生になる頃に劇的な変貌を遂げる。三年生までは、先生にさえ良く思われれば、仲間に何と思われようと構わないという時期である。「先生」と「お母さん」が大好きなのである。
 だから、友達がいたずらしたりしていると、平気で「先生」に言いつけに来る。席に戻って、「先生に言いつけてあげたからね」などと肩をそびやかす。言いつけられた方も、恨んだりはしない。「僕なんか、そんなことしてないもん」と下を向いて困る切る。「ちくったな」などと恨んだりしないのである。
 四十人の子どもが、すべて一本の線で教師に直結している。友達の悪さを言いつけに来るときも、決してその友達を陥れたいと思っているのではない。「先生、私は誰々さんのやっているようなことがいけないことだということを知っています。褒めてください」というのが彼等の本当の気持ちなのである。
 この時期の子どもに、批判的や抵抗精神を教え込むことなどは、不必要であり不可能である。ではこの時期の子どもには何を教えるか。私はそれは「服従する心」であると思う。教師や親を絶対的に信頼しているのだから、この時期には、上長の言に無条件に従う素直さを育成しておかなければならないのである。
 戦後の教育は、敗戦による国民の自信喪失の影響もあり、国家に対する抵抗の重要性がやたらと強調された。かくして、「抵抗は美徳、服従は悪徳」とする考え方が、世の中全体にしみ通っていったのである。戦うべき相手に対して徹底的に抵抗すべきであることは論を待たない。しかし、これを小学校低学年にまで持ち込み、「鼻に目薬を入れる」ような教育を重ねた所に、戦後教育荒廃の大きな原因があったと私は考えている。

■批判力は子どもの心の内面発酵の結果
 四年生になると、そろそろ、「先生も大切だが、仲間も大切」という時期に入ってくる。六年生ともなると、仲間の比重は一層強くなってくる。
 この時期になると、それまで彼等が素直に、無条件に受け入れてきた価値だけでは、人生を生きることができなくなる。
 例えば、おばあちゃんが癌で助からない状況に置かれているとする。おばあちゃんはそのことを知らない。だが不安もあり、孫に本当のことを話して欲しいと頼んだとする。一年生なら、すぐしゃべってしまうかも知れない。だが思考力の発達した高学年の児童は、右にするか、左にするか、判断に迷うことになる。人間は正直でなけらばならない。だが人間は、他人の悲しみを思いやる心を持たねばならない。多くの価値が、彼あるいは彼女の内面で葛藤する。その中から、彼等は彼等なりの独自の決断に到達せざるを得ないのである。
 素直に従順に多くの価値を吸収していてば、それらの価値は内面葛藤を重ね、その中から本当の主体性、自我、批判力が芽生えてくる。批判力は、子どもの心の内面発酵結果として芽生えてくるものであって、批判力それ自体としては教えられないものではないかと私は考えている。
 素直さ、上長に服従する心、これをしっかり身につけて中学へ進んだ生徒は、教師とも仲間とも円満な人間関係を保つことができる。高校生ともなれば、教師よりは仲間が決定的に大事になってくる。もうほとんど一人前である。彼等とは、真心を込めて深く話し合えば、どんな困難でも、乗り越えることができる。
 高校生は、教師や親を踏み乗り越えて、やがて独り立ちする準備の時期に入っている。彼等が親や教師の言に一々逆らうのは、自分なりの我を通して見て、通るものと通らないものを弁別しようとする本能から来ているのである。彼等が理不尽な抵抗を見せるときには、「ああ、今脱殻しようともがいているんだなあ」という目で、温かく見守らねばならない。また高校生は、その先数年の間に、配偶者を獲得しなければならない。大人の目から見れば不必要なくらいに彼等が目立とうとするのは、そのためである。ワイシャツの裾を外に垂らしたり、腰骨のあたりまでズボンを下げて歩きたがったりする。彼等は、目立たねばならないのである。
 だが、賢いとは言っても、高校生である。社会経験も乏しく判断力も十分ではない。駄目なことは駄目だと、厳しく叱責してやらねばならぬ時もある。だが小学校時代に、特に低学年の頃に、上長に対する素直さ、服従する心をしっかりと育成されていない場合は、親や教師と、不必要な摩擦を生ずる結果に陥りやすいのである。

■教育基本法に「発達段階」の文言を
 教育には適時性がある。ある時期にある教育を受けていない者は、その潜在的資質を十全に発揮することができない。その適時性を充たすものこそ、発達段階に応じた教育にほかならない。
 成人式にすら満足に参加できない「大人」がいる。彼等は幼い頃、その発達段階に応じた教育を受けていなかったが故に、世にあのような醜態をさらすに至ったのであろう。「子どもの権利条約」が、しばしば教育上の論議に持ち出される。だが、そもそも「子ども」とは何であろうか。この条約の第一条は、「子どもとは、十八歳未満のすべての者をいう」と定めている。だが、ゼロ歳から十八歳直前の者まで含めて、一律に「子ども」と規定することに、どれだけの意味があるのであろうか。だから、論議に子どもの権利条約を引き合いに出す場合も、常に発達段階をいうことを意識して話し合って行かねばならないのである。
 実は教育基本法には、発達段階という文言が全くない。それはすべて、学校教育法に委ねられている。すなわち、「小学校は、心身の発達に応じて、初等普通教育を施すことを目的とする」(同法十七条)というのがそれである。同様の趣旨は、中学校、高等学校についても規定されている。同法三十五条 四十一条)
 このことからも分かるように、国は決して発達段階という理念を見失っているわけではない。学校教育法に基づいて作成されている学習指導要領は、まさにこの発達段階を、具体的に展開したものである。
 しかしながら、戦後我々は、この理念を十分に生かし切れなかったのではあるまいか。教育には、問答無用で価値規範を「押しつけ」ねばならぬ一面がある。特に小学校低学年ではそれが著しい。それだけに、教育の根本法とも言うべき教育基本法のどこかに、発達段階という文言を加えておくことには、極めて大きな意義があると私は思うのである。
 人間は、生まれながらにして人間であるのではない。我々は、育ててくださった周囲の多くの方々のお力によって人間にして頂いたのである。「人間になるのではない。人間にするのだ」我々は、この確信を持って次の世代を育てて行かなくてはならない。その底に潜むもの、それこそは発達段階という理念なのではないだろうか。

(祖国と青年 平成16年 10月号掲載) 

愛国心の育成は教育の根本のテーマ

なぜ「愛国心・公共の精神」が問われているのか-教育基本法改正の背景を衝く-

 人間の本質を利己的なものして矮小化する傾向が今日支配的であるが、実は人間は、決してそのようにちっぽけな存在ではない。だれでも、身近に、自分の命以上に大切な人を持っている。妻であれ、夫であれ、わが子であれ、恋人であれ、彼らの生命身体に危難が迫る時、人は迷わず命を賭してその救出に当たる。これが人間の本質である。
 人は、己一身の幸せのみを追い求めたのでは、遂に幸せになることができない生き物だと私は思う。絶えず、己を捧げ尽くして悔いることのない何ものかを求め続けるところに、人間の偉大さが存在する。神は人間を、そのようなものとしてお創りになったのではいだろうか。その愛の対象を、家族から友人へ、友人から国家へと拡大していった人間を、われわれは英雄と呼ぶのである。
 かつての「国家主義」への過度の反発から、個人は善で国家は悪だとする価値観が定着してしまった。かくして、個人の利益はすべてに優先し、国家、公共のために挺身するのは、何か警戒すべき傾向であるかのような雰囲気が根付いてしまったのである。「愛国心は是か非か」こんなことが大まじめに議論されるような国家は、古今東西にその例を見ない。なぜ、これほどまでに国家は悪者になってしまったのであろうか。
 太平洋戦争における、我が国の予想外の抵抗に驚いたアメリカは、アジア、アフリカ唯一の、この「危険国家」を、軍事的にだけでなく、精神的にも武装解除しようと試みた。極度の言論統制の中で、このための工作は進められたが、その結果、国家、公共の持つ重要性は全面的に否定され、個人が唯一、絶対の価値であるとする「戦後イデオロギー」が形成されるに至ったのである。
 だが、個人も人権も、国家をその最終的な拠り所とする。個人が、国家を離れて存在できないものであることを如実に物語っているのは、パレスティナ問題であろう。
 様々な事情の末、ユダヤの民は、数千年前に母国を離れねばならなかった。アウシュビッツの悲劇に待つまでもなく、母国を失ったユダヤの民を、どれほどの辛苦が襲ったか、知らぬものはあるまい。「神の正義」を主張して、ユダヤの民はパレスティナにイスラエル国家を建国したが、今度は、そこを追われたパレスティナの民が、難民として苦しみ抜いている。それは、テロの遠因ともなり、世界全体の不安定要因を構成している。祖国を失うとはいかなることか、今日われわれは、それを深く考えてみるべきではないだろうか。
 われわれは、歯舞、色丹、国後、択捉の北方領土を、ロシアに不法占領されている。沖縄本島の四倍をはるかに超える面積である。尖閣諸島や南鳥島には、中国が領土的野心を露わにしている。竹島は、紛れもなく日本の領土だが、韓国は、これを不法占領し、官憲を常駐させている。だが、これに対し、国民の間に燃えるような怒りが湧き起こってこない。寸土を奪われて怒ることを知らぬ民族は、やがて本土をも失う。国家は、国民の燃えるような愛国心なしに、その国境線を維持できなるものではない。
 愛国心育成に対するアレルギー的警戒心は、国家だけでなく、公共に仕えようとする精神をも破壊する。今や、国民や国家以上に、己を大切に思う政治家が輩出している。その中には、朝鮮や中国から、何らかの形で「政治資金」を獲得しているのではないかと思われるような政治家さえ少なくない。政治家が、外国から買収されるようでは、国の将来が危ぶまれる。
 公に、殉ずる精神の崩壊は、今や企業の維持運営すら、困難に陥らせている。総会屋に対し、一億を超える金を渡した大会社の経営者もいた。会社にどれほどの損害がかかろうとも、己一人助かればとの利己心が、この社長の心を支配していたのであろう。己以上の、何ものかのために生きようとする高貴な精神が育っていない世界では、企業ですら、健全に存在し続けることができないのである。
 小学校を殺人者が襲ったとき、小学校一年生の担任が、刺殺される教え子を置き去りにし、先に立って逃げたというケースもあった。教師は、教え子の生命身体に危難が迫った場合には、命の危険を顧みてはならぬ職業である。己を持って至高至上の価値とする「ミーイズム」で、その使命を全うすることができるものではない。
 家族その他、身近な者への自己犠牲的な愛には、本能的な一面もある。ある意味でそれは、ひとりでに形成される。だが、他人や国家、公共への愛は、放置しておいても育つというものではない。それは、愛国心、公共心を、目的意識的に、継続して育てるのでなければ、決して育たないものなのである。
 身近を見回しても、命の危険を恐れず、他人に尽くしている人間は、決して珍しいものではない。逃げ遅れた人を救出するため、消防士は、猛火の中に突っ込んでいく。伝染病が流行し、感染の危険があると知りつつ、医師や看護師は、人命救助のため、命がけの献身を惜しまない。それは、彼らが、その職業の持つ崇高な使命を深く自覚しているからであろう。
 他人や国家のために、命を惜しまず挺身してくださる方があるからこそ、われわれの幸せな日々があるのである。そのような献身は、人の心の奥底深くに潜む本能である。だが、その本能を美しく花開かせるための教育は、学校教育の中でほとんど忘れ去られてきた。外国がわが国の領土と侵しても、教師は教え子に、怒りを込めてその事実を弾劾したりはしない。凶悪犯と格闘の末、殉職した警官がいても、その犠牲的精神を賞賛するというようなこともない。そのようなことをすれば、国家主義とか、ファッションなどと言われはせぬかという「戦後イデオロギー」が、教師の心の底流に、根深く存在しているからなのであろう。
 だが、敗戦の日より既に六〇年の歳月が流れた。一九四五年に生まれた赤子も、今年は定年を迎える。いつまでもアメリカ占領軍のイデオロギーに支配されている時ではない。個人を価値の根源とする、個人主義の、理念的正しさを把握しつつも、その拠り所である国家や民族の伝統のもつ重さを、次の世代にしっかりと伝えていかなければならない。
 それこそは、愛国心の教育にほかならないのである。

(現代教育科学 平成17年 3月号掲載)

 

愛国心の否定こそ危険

 戦後わが国では、人間の本質を利己的なものととらえる傾向が強くなった。そのため国家や社会のために尽くせと教えることは、ある種の「危険思想」と受け止められがちだった。
 だが人間の本質は、利己主義にとどまるものではない。誰でも、自分以上に大切な誰かを持っている。それが親であれ、子であれ、妻であれ、恋人であれ、その愛する者の生命、身体に危難が迫ったとき、人は誰でも、わが身の危険を忘れて救出のため挺身するのであろう。決して「自分だけがこの世で一番大切な存在」ではないのである。
 「何ものかのために、己をささげ尽くしたい」これは神が人間に与えた最も高貴な内的衝動なのではないだろうか。だが、そのような愛、犠牲的な精神は、そのままでは家族や恋人、友人など、個人的範囲にとどまりやすい。これをさらに、職務や社会、さらに国家へと拡大していくものが教育ではないだろうか。
 私が勤務する私立高校でも、自分の個人的利益より学校全体、生徒全体の利益の方を重視して行動する教職員は、決して少なくない。教頭と「彼女は公あって私なしだからな」と笑うことがある。そのような人物にとっては、学校や生徒の利益、幸福が、彼あるいは彼女の自我と切り離しがたく融合してしまっているのである。なんとすがすがしい人たちであろうか。
 学校に限らない。その自我が職場そのものと融合してしまっている人間は決して珍しいものではない。昨今これを「仕事人間」などと揶揄(やゆ)する傾向が強いが、恥ずべき考えだと私は思うのである。
 その愛の対象を、家族から社会へ、社会から国家へと拡大していった人間をわれわれは英雄と呼ぶ。しかし現在のわが国は、なんと英雄に乏しい国家になり下がってしまったことであろうか。
 「個人は善、国家は悪」ととらえる戦後思想は、人間性そのものを矮小化し、国民から気高く生きる気概を奪い去った。その弊害は、今や国の存亡を危うくする規模にまで達している。
 政治家は本来、国家のために死すべき崇高な仕事である。しかし最近では、政治を己の利をむさぼる手段と心得るようなものも数多く出現してきた。近隣諸国と通じ、国家、国民を売り渡すような分子さえいる。官僚の多くは、命を縮めるほどの辛苦を重ねて国家を支え続けててくれている。しかし、ごく一部とはいえ、公益を忘れて私利に走る輩もいないわけではない。
 国家や社会の根腐れとも評すべき、このような状況を生み出したものは、国家、公益を軽視し続けた戦後教育そのものではないだろうか。
 ここに至ってなお、愛国心の育成を危険視する傾向が与野党内に存在し、ために教育基本法改正の今国会成立は見送られようとしている。
 だが、人は己自身の利益のみを追い求めたのでは、ついに幸せになることができない生き物である。愛国心の育成を否定して、人間性の健全な育成など考えられるものではない。危険なのは愛国心でははく、それを危険視する時代錯誤なのではないだろうか。

(平成17年2月2日付け産経新聞掲載)

教基法改正をこれ以上先送りするな


教育基本法改正は国家存亡に関わる重大問題であり、戦後イデオロギーそのものとの戦いに他ならない。

■教育荒廃がもたらしたもの
 郵政の民営化が最大の争点として争われる中で、教育基本法が今国会で改正される可能性は乏しくなった。私は軍事、司法及び重大な国家機密に関わる分野以外は、すべて民営化するのが良いと考えている。その意味で、現内閣が郵政民営化を大きな課題として提起していることに異存はない。だが小泉総理は、衆議院を通過した郵政法案が参議院を通過しない場合は、国会の解散も辞さないとの口吻をもらしている。一院が可決した法案を、二院が否決したから一院を解散するというのでは、これはもう無茶苦茶である。憲政の常道を否定してまで執着するほど、郵政民営化は喫緊の急務なのであろうか。それ以上に重大な政治課題は、ほかに存在しないのであろうか。
 私は、私立の校長だから、学校説明のために中学校を訪れることが多い。最近では話をきちんと聞くことのできない中学生が増えている。体育館の中に入れてもらえない(入れることができない)生徒の集団もある。今や中学校では、教育以前に治安が憂慮される実情である。無責任な「高校全入」の結果、一部の生徒は、自らの個性に不向きな機関での教育を強要されている。そのため、退学者が続発する学校もある。教育の荒廃は治安の乱れの大きな原因となっている。
 今や親殺し兄弟殺し等、家族間の殺人が日常化している。子は親を顧みず、親の老後は、国家による介護に丸投げされている。厚生労働省周辺からは、「性の自己決定」なる怪しげな思想が流布され、未成熟な子供の間に「性生活の自由」が蔓延しつつある。
 ゆとり教育を契機に、子ども達の学力は急速に低下している。加工貿易国である我が国に取り、それがどれほど恐ろしい結果を招来するか議論するまでもあるまい。
 子ども達は、自国の歴史に誇りを失いつつある。祖国を忘れて「地球国家」の幻想を追い求めるコスモポリタニズムが支配的になってしまった。衆議院議長の河野洋平氏のごとく、靖國神社参拝を巡って、国益より中国の利益を代弁するというような恥知らずの傾向も出現してきた。これはむしろ、戦後教育がこれほど低劣な政治家を生み出したという、教育荒廃の問題として理解すべきであろう。中国に「軟らかい土はいくらでも掘れる」という諺がある。イギリスに対しては、阿片戦争の責任を追及しない中国が、虚偽の事実をでっち上げてまで我が国の責任を追及しつつあるのも、教育荒廃が生み出した「土の軟らかさ」のしからめる所であろう。 「郵政」がつぶれたから国家がつぶれたというものではない。だが、教育の荒廃は、まさに国家の存亡に関わる重大問題である。それなのに、積年の政治課題を次々に解決してきた小泉内閣が、こと教育の問題となると、発端に腰が重くなってしまう。政治はなお、教育荒廃克服の重大性を先送りするのであろうか。
 私はもともと、教育基本法の改正は憲法の改正より難しいと考えてきた。改正手続きの難易を離れて、それは戦後イデオロギーそのものとの戦いにほかならないからである。
 今や憲法九条改正の必要性を否定する人は少ない。それは共産党や社民党など、ごく小数の時代錯誤グループの範囲に留まる。だが教育基本法改正となると、その争点は必ずしも明確ではなく、そのため教育荒廃を憂える人々も、なかなか教育基本法改正まで踏み切ることをためらうのである。ここに、体制化した戦後イデオロギーの恐ろしさがある。
 日教組ならびにその周辺学者を中心とする勢力の、教育基本法に反対する動きには凄まじいものがある。これは逆に、教育基本法の改正が、それほどに重要であることを物語っているのではないだろうか。

■教育基本法改正のポイント
 では、教育基本法のどこをどのように改正すべきか、そのすべてに触れる紙幅はないが、特に大切と思われる幾つかの点に触れてみたい。

①前文の無国籍主義の克服
 教育基本法の前文を貫いているものは、国籍不明の思想である。確かに「普遍的にして個性豊かな文化の創造をめざす教育」と述べてはいるが、この「個性」は、必ずしも我が民族の伝統文化に対する敬意や誇りの育成を示すものではない。むしろそこで協調されているのは「普遍性」である。それが、自国の伝統文化に対する自虐的傾向、無国籍主義思想の温床となっている。この法律が、占領下の昭和二十二年に制定されたという時代背景を考えれば、理解できなくはないが、この無国籍主義の克服なしに、自国への誇りを育てることはできない。断然この前文は、独立国家の教育基本法として相応しいものに改正しなくてはならないであろう。

②教育基本法に欠けている発達段階の思想
 デューイは、「子どもは教育の主体であって客体ではない」と述べている。教育が、生涯を通じて学び続けることのできる人間の育成を最終目的とする意味で、この考えは必ずしも間違ったものではない。しかし我々は、そこに「発達段階に応じて」という媒介項を挿入することを忘れてはならない。
 幼児はもとより、小学校においても、少なくとも三年生くらいまで、子どもは、その生き方を全面的に教師や父母に依存している。中、高校生といえども完全に自己教育の主体たり得るものではない。子どもは、それぞれの発達段階に応じて、教育の客体として導かれなければならない一面を有している。
 今日の教育荒廃の最大の原因は、未発達の子どもを、成熟した大人であるかのごとく、「主体扱い」してきたことにある。まさに「腫れ物に触る」ような姿勢であった。しかしそれはある種の「ないものなだり」でしかない。改正基本法のどの部分かに、「発達段階に応じて」という一句を、是非挿入しなければならないと思うのである。

③義務教育期間は規定するな
 現行法では義務教育は九年と定められている。私は義務教育制度は廃止するか、少なくとも小学校までにとどめるべきだと考えている。義務教育費国庫負担と称して、教科書まで無償の我国であるが、子ども達は相当高額の月謝を払って学習塾に通っている。高等学校は義務制ではないが、中学校卒業生の九十九パーセントが高校に進学している。
 そもそも保護者が学校に通わせることを忌避するから義務教育制度が実施されたのである。父母が、今日のごとく教育熱心な実情の中で、なお義務教育というのは、少しおかしいのではないか。義務教育は、新しい時代背景の中で再考すべきだと私は思う。少なくともそれは小学校六年生までにとどめるべきであろう。中学校以降は、進学することの判断と責任を子ともに委ねるのが良い。増大する不登校や引きこもりは、自由と共に自己責任の自覚を持たせることによって解決できよう。いずれにせよ義務教育年限は、原則規範としての教育基本法に規定すべき問題ではない。

④十条の「不当な支配」は削除せよ
 日教組や家永三郎氏を指示するグループを中心に、国家や自治体が、教育の「内的事項」に関与すること自体が「不当な支配」に属するという主張が永く行われてきた。ここから彼等は、学習指導要領が、「教育の大網的基準」として法的拘束力を有することすら否定するのである。これでは、全国に一定水準の均質な教育を行うことができない。国字をテーマにするとの主張すらある我が国である。大綱的基準としての学習指導要領は、憲法二十六条の定める、子どもの教育を受ける権利、教育の機会均等を保障するものである。
 幸い「最高裁旭川学力テスト判決」によって、国家、地方自治体が、教育の内的事項にも関与できるものであることは明確にされた。最終有権判断が下されたのであるが、それでもこの「不当な支配」なる文言が、この後も悪用される可能性は否定できない。
 教育基本法制定当時、日本国民の思想的武装解除を企図するアメリカ占領軍が、極端なまでに、教育に対する国家の関与を忌避する中で、この条文が制定されたという沿革から考えても、これは削除するのが最善である。もし残すとすれば、全国民の意思を体して、法律並びに行政が、教育の内的事項に関しても、大綱的に関与できるものであることを明確にしておかなければならない。

⑤教育基本法準憲法論の思想的あやまり
 教育基本は、上位の特別な法律であるという考えが、今も根強く存在する。だが我が憲法の下において、憲法以外に上位の法律はない。他の教育関連法との関わりで、それは一般法と特別法の関係にはあるとは言えるが、決して上位の法律というようなものではない。「教育基本法準憲法論」が、学校教育法を否定するために悪用されがちであった沿革からも、この点は銘記しておかねばならないと思うのである。

(祖国と青年 平成17年 8月号掲載)

「習熟する国語」を見直せ

 人間は、話すときに言語を用いるだけでなく、考えるときにも言語を使う。人間は言葉で考えるのである。
 一九二〇年、インドで発見された少女、アマラとカマラは狼に育てられていたらしいが、「狼時代」の記憶は全く持っていなかった。彼らの記憶は、救出されて、言語を身につけ始めた時期と重なっていたという。
 通常の環境に育った人間の場合も、幼時の記憶が言葉を覚え始めた時期と重なることは誰しも体験しているところである。記憶ですら言語に媒介されているとすれば、言語がなければ人間性も存在できないことになろう。その意味で、言語は人間性の存在根拠だともいえるのである。
 最近小中高校生の読書離れが深刻になっている。活字以外の媒体の隆盛、その他生活環境の変化が原因だと伝えられるが、これは彼らの人間形成そのものにかかわる深刻な問題である。
 「書き言葉」は「話し言葉」の数百倍の豊かさを持っている。その豊かな言語を身につける最善の手段は読書である。映像文化だけで豊かな言語を身につけることはできない。テレビで用いられる語彙と、新聞で用いられる語彙とを比較すれば、その違いは明白である。
 青少年の間で、その大切な「活字文化」が衰えてきている。これは単に、知識が乏しくなってきたというような問題ではなく、人間性そのものがやせ細ってきているものとして、深刻に受け止めなくてはならない。
 超キライ、滅茶スキ、ムカツク、ウザッタイ等々、実際に、数十程度の「若者言葉」で日を過ごしている高校生集団も見受けられるが、これは言葉が貧困だというだけではなく、彼らの人間性そのものにかかわる深刻な問題なのである。
 戦後わが国では、戦前とは比較できぬくらい読書の重要性が強調されてきた。昭和二十八年には「学校図書館法」が制定され、すべての学校に図書館を設置し、そこに図書館司書を置くことも義務づけられた(同法三条、五条)。
 それなのに青少年の読書離れは皮肉にもかえって深刻化していった。これは、単なる環境の変化に起因するだけではなく、国語教育のあり方そのものにも問題があったのではないかと私は考えている。
 既に述べたように、書き言葉は、話し言葉に数百倍する豊かさを持っているが、単なる読書だけでこれを定着させることはできない。音吐朗々と名文を朗唱し、やがてその全文をそらんずることができるようになって初めて、書き言葉は話し言葉のように肉体化されるのである。
 戦前に化し、戦後の国語教育に致命的に欠けるものは、この音読の軽視だったのではないだろうか。「考える国語」を重視するあまり、戦後教育は「習熟する国語」を軽視してしまった。
 読書は面白さと難しさとの競争である。ある程度の「言語蓄積」なしに読書意欲を育てることはできない。この意味で、江戸時代の「論語の素読」のような手法に学ぶ所も少なくないのではないだろうか。

(平成17年7月18日 産経新聞掲載)

子供のために反撃せよ

 中高校における生徒の暴力事件には、やや沈静化の気配が見られる。しかし小学校では平成九年以来最悪の事態を二年連続して更新した。
 平成四年における小学生の暴力事件は、前年度より二百九十件増加して千八百九十件あったと伝えられる。中には、あいさつを指導した教師に殴りかかり、足をけったという五年生もいる。この五年生の「加害行為」に対して、教師はどのように対応したのであろうか。
 不正に他人をけ飛ばしたら、反撃されるのが世の常である。この教師はそのように「適切に」対応したのであろうか。否、決してそうではあるまい。おそらく教師は、暴れる子供の体を押さえる程度に「自己抑制」し、後に「温かく」「しみじみと」「懇切に」「指導した」のに相違あるまい。
 その結果子供は、教師とは殴ったりけ飛ばしたりしても決して反撃することのない極めて安全な生き物だと実感したに違いない。かくして全国に、生きたサンドバックのごとく子供に殴られっ放しの教師が輩出するに至ったのである。
 相手が子供であろうと、暴力は暴力である。急迫不正の侵害に対しては、ためらうことなく反撃しなければならない。世の中とはどんな場所であるかを、骨身にこたえて分からせなければならないのである。
 だが実際にそんなことをやったら、教育委員会が黙ってはいるまい。教育委員会の「ご意向」を過度に気にする校長も、直ちに子供に謝ってこいと教師に要求するに違いない。厳しく批判され、陳謝を強要され、さらには処分さえ覚悟しなければならないのだから、結局けられっぱなしの方が安全だということになる。
 このような小学生の暴力事件に関して文部科学省は「学校全体で問題児童の対応に当たるよう指導を徹底する」と答えている。では「学校全体で」どのように「対応」するのか、その答えはない。
 中高生ならともかく、小学生にここまで学校が「なめられる」ようになったのはなぜなのか。この点の深刻な反省が文科省には欠落している。地方教育委員会は、文科省のこの姿勢を忠実に反映している違いない。高校に暴力事件が意外に少ないのは、高校には退学という制裁手段があるからである。
 小学校でのしつけが不十分な上、退学、停学というような制裁措置も持たない中学校では、いったん暴力事件が発生したら、手の施しようがない。マスメディアにも知られるようになり、最後には保護者に学校を巡回してもらって何とか沈静化するというのが、これまでの一般的なコースなのである。学校の無能ぶりを天下にさらけ出すようなものではないか。
 文科省、教育委員会は今も「体罰絶対禁止」を振り回す。だが法に言う「体罰」が何を指すのか、その概念規定され明確ではないのである。小学生までが荒れ狂う現状にあってわれわれは、戦後の指導姿勢を、根本的に見つめ直さなければならないのである。

(平成17年10月10日 産経新聞掲載)

義務教育費国庫負担廃止問題をめぐって

―財源上の表層の論議に終始せず、日本の教育制度の抜本的改革との関わりの中から論議せよ― 教育費の濫費をなくせ
 現在、義務教育に携わる教員の人件費の半額は国が負担することになっている。それは次のような法律の定めに基づいている。「国は、毎年度、各都道府県ごとに、公立の小学校、中学校、(中略)に要する経費のうち、次に掲げるものについて、その実支 出の二分の一を負担する。(後略)」(義務教育費国庫負担法第二条
 具体的にこれは、都道府県の公立小、中学校等の教員の人件費を指すものである。教育費の「半額国庫負担」と呼ばれている。
 将来これを完全に地方自治体に負担させようとする動きがあり、その一部は既に実施に移されようとしている。これは、一つには、天文的数字に上る我が国の財政赤字を克服するための施策である。反面、相当の財源を地方自治体に移管する事により、「地方の時代」へのニーズに応えようとするものである。
 これは、ある意味で文部科学省の権限を縮小する事を意味する。それ故か、同省ならびに中央教育審議会は強くこれに反対している。その論拠の最大のものは、義務教育諸学校の人件費のすべてを地方が負担する結果、冨裕県と財政的に苦しい県との間で、教育条件に格差を生ずるということである。
 憲法二十六条は、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と定めている、それを受けて、義務教育費国庫負担法も「(前略)国民のすべてに対し、その妥当な規模と内容を保障するため、国が必要な経費を負担することにより、教育の機会の均等とその水準の維持向上とを図ることを目的とする」と定めている。(義務教育費国庫負担法第一条)
 しかるに、義務教育諸学校における人件費の半額を国家が負担せず、その支出を都道府県に負担させるということになれば、それぞれの地域における教育にある程度の格差を生ずることは避けられない。それは、以上のような教育の機会均等の理念に乖離する結果となる。この点を理由に文部科学省は、義務教育費国家負担を従来通り維持するよう主張するのである。
 しかし事はそれほど単純ではない。教員人件費の半額を国家におんぶするという「親方日の丸」の思想は、ともすれば教育費の濫費を生み出しやすい。昨今は、教育を聖域と位置づけ、教育にはいくら金がかかっても構わないというような考えも存在するが、累積する国家赤字を考えれば、教育もコストという理念を忘れてはならない。
 地方自治体によっては、最近、少人数学級や複数担任制などを導入する傾向も見受けられるが、これらが教育上どの程度効果を発揮するかは、必ずしも検討され尽くしてはいない。むしろ児童、生徒の数が減少する中で、余剰教員の職域を維持しようとする教職員側の要求が、このような施策の拙速的実施を加速させているようにも感じられるのである。都道府県が、教員人件費のすべてを負担しなければならないということになれば、当然このあたりも厳しく検討される事になろう。

教育の本当のコストは把握されているのか
 冨裕県とそうでない県との間に、「教育格差」を生ずるとの批判もあるが、私は教育の水準を決めるものは決して金だけではないと考えている。我が国の公立学校の教育は、決して乏しい予算で運営されているというものではない。しかし、その教育的成果は果たしてどうであろうか。
 学力は低下し、高校女生徒が母親の毒殺を図り、冷たくされたという思いこみから同学年女生徒を惨殺する男子高校生も現れている。挨拶を注意された小学生が、無抵抗の教師を殴ったり蹴ったりしたと言う報道もある。金ではない重大な何かが欠けているのでなければ、こんな馬鹿げた事件の続くはずがない。
 私はむしろ、教育に要する予算のすべてを都道府県に委ねる事の方が、金を効率的に使う結果となるばかりでなく、教育の質そのものを高めるためにも効果的なのではないかと考えている。中教審、文部科学省は、明治以来最低とも言えるほどの教育荒廃の実情を、謙虚に振り返り、深く考え直して見るべきなのではないだろうか。
 義務教育は確かに無償になった。今日教科書代までが無償である。だがその反面、こども達の相当数が、月額三万、五万という月謝を払って学習塾に通っている。保護者並びに子ども達が、公立学校における教育に満足せず、高額の経費を払って「もうひとつの学校」に通っているのだから、義務教育無償の原則は、本当の意味で貫かれているかどうかすら問題にされなくてはならないのであろう。
 私は文部科学省に、現在、全国の児童生徒のどの程度の数が学習塾に「通学」しているか、学習塾にはどのくらいの人数が教師として働いているか、これに支払われている人件費、保護者が支払っている月謝の総額がどのくらいの金額に上っているのかを調査して頂きたいと思う。それらに関する正確な実態調査もなく、義務教育費国庫負担の是非を論ずる事は、いささか空しく感じられてならないのである。

義務教育制度そのものの見直しを
 そもそも義務教育とは何であろうか。憲法二十六条は「義務教育は無償とする」と定めている。公立小中学校における教育が義務教育である事を疑う者はあるまい。しかし私立の小中学校における教育は、義務教育ではないのであろうか。義務教育でないのなら、保護者は勝手に学校を辞めさせて良い事になる。
 実はこの点は、教育基本法が「巧みに」言い抜けている。すなわち「国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。」(教育基本法第四条二項)というのがそれである。私立学校に通えば無償ではないが、これを公立学校に転校させれば授業料は要らないのだから、憲法が定める義務教育無償の原則は貫かれているということなのであろう。
 しからば、保護者並びに児童生徒は、義務教育無償という国民の権利を行使するためには、学校選択の自由を制限されなければならないのであろうか。公立学校に対する様々な不安も語られる中で、このような学校選択の自由を制限する事は、決して許される問題ではない。
 私立小中学校が授業料を徴収しているのは事実である。だがこれらの児童生徒に対しても、国家、自治体が公立学校に支出していると同額の就学助成をバウチャーその他様々な形で支給することは決してできない相談ではない。このような公私間の差別が、憲法二十四条の、「法の下の平等の理念」に合致するものとは到底考えられないのである。
 義務教育そのものについても私には異論がある。義務教育制度は、保護者が教育に対する熱意を有していない場合に、その存在意義がある。だが今日、教育に対する国民の熱意は、明治初年の学制実施当時とは比べものにならない。親たちの教育熱は、史上例を見ないほどに高い。高等学校は義務教育ではないのに、その高校への進学率は九八パーセントを超えている。事実上、「高等学校の義務教育化」が達成されているのである。
 そのような状況の下で、中学校を「義務」から解き放ったとしても、子どものほとんど一〇〇パーセントが中学校に進学するであろう事は疑いない。一部に進学しない生徒も出るかも知れぬが、現状でも不登校その他様々な形で中学校に登校しない生徒は存在する。
 そのような、進学を好まぬ子どもを法律で縛ってみても意味のない事である。通学するか否かは、保護者と本人の選択に委ねるべきだと思うのである。「どうしても出て来なさい」ではなく、「どうなさいますか」と選択責任を求められたとき、むしろ不登校の数は減少するのではないかと私は考えている。
 但し、後々になって学びたいと考える若者も現れて来るであろう。学校はそのようなとき、常に温かくこれを迎える姿勢を堅持しなくてなならない。
 義務教育を小学校までとした場合も、公立の中学校に学ぶ生徒からは、授業料を徴収しないという、これまでの制度は残しておくべきであろう。立法上、多少工夫を要するが、やってできない事ではない。
 また、公立高等学校の授業料は、異常と言えるほどに低額である。それに要する経費のほどんどは公費から支出されている。これは、屈折した形での学費の無償化、義務教育の、高等学校への事実上の延長と見るべきではないだろうか。昨今国立大学の授業料は、私たちの学生時代に比べれば、信じられないほど高額である。今や、大学における公私間格差は廃絶されたと言って過言ではない。それなのに、高等学校における公私間には驚くべき格差がある。
 国家財政逼迫の折から、ここには「受益者負担」の原則が貫かれなくてはならないであろう。また公立高等学校の「事実上の無償化」とも言うべき低廉な学費を許容する、財政的ゆとりが我が国に残されているのならば、これはバウチャーその他の形で、私立高等学校にも拡張されなくてはならないであろう。
 それにしても、最悪の学校制度とも言うべき六三三制は、一向に変革される気配がない。却って「中高一貫教育」が強調される有様である。義務教育費国庫負担の廃止問題も、教育制度の抜本的改革との関わりの中で検討されなければ意味がない。それなしに、財源の行方を回り政府、自治体が右往左往する有様は、まさに正視に耐えない。我が国の教育関係者は、明日を担う子ども達の幸せを、真面目に考えているのであろうか。

(「祖国と青年」平成17年12月号掲載)

制度変更より理念問え

 中央教育審議会は五日、教員免許を十年ごとに更新するシステムの導入を提言した。しかし教育現場に生きている者としてこれは机上の空論のように思えてならない。
 高等学校の場合、少し昔、教員免許状は四年制大学卒業を前提とする一種免許状のみだったが、その後「専修免許状」が新たに設けられた。これは、原則として大学院の修士課程の修了を前提とする者である。俗に「上級免許」と呼ばれる。
 しかしこの「専修免許」は給与上特に優遇されるものではないので、現場にほとんど影響を及ぼさなかった。私自身大学院を修 了してはいるが、手続きも面倒なので専修免許は申請せず、そのまま従来の一種免許状で教壇に立ち続けている。しかし別に不利益を被っているわけではない。「専修免許」の新設が教員の資質向上に役立ったとは考えられないのである。
 教員免許を十年ごとに更新する制度に変更したところで、更新を受けられなかった教員を教育現場から「放逐」することが本当にできるだろうか。
 これに類似する制度として、裁判官の任期制を挙げることができる。すなわち「下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によって、内閣でこれを任命する。その裁判官は、任期を十年とし、再任されることができる」(憲法八〇条)
 しかし実際に再任を拒まれるケースは極めて少ないようだ。また裁判官は再任を拒否された場合も、弁護士にその職を転ずることができる。判事、検事、弁護士になる人々には、等しく司法試験に合格することが求められているから、「法曹一元」制に基づき、このような転身が可能になるのである。
 だが教員の場合、事はそれほど簡単ではない。
 大学あるいは大学院を出た後、十年後に、三十代を超えてから免許の更新を拒否されたのでは、該当者は家族を含めて路頭に迷う結果となる。今日の年功序列賃金体系がそのままに放置された状況にあって、再就職は事実上不可能である。
 幼児や小学生に対する犯罪その他、昨今の恐るべき社会状況は、わが国学校教育の荒廃に本当の原因がある。しかし、これは、子どもの内面からひとりでに芽生えるものに過剰な期待を寄せ、「教え込んでいく」ことにアレルギー的警戒心を抱く戦後思想そのものに原因がある。教育理念にこそ問題があるのだ。
 これに正対することなく、次々に「制度いじり」を繰り返す昨今の動きには不安を抱かざるを得ない。
 免許の十年更新だけではない。最近地方自治体の一部に広がりつつある「少人数学級」も学級の適正規模とは何かがしっかり把されぬまま実行に移されつつある。絶望的な国家財政にもかかわらず、ここにはコストをいう思想が完全に欠落している。自治体首長の人気取りの気配さえ感じられる。複数担任制についても同じである。
 「制度いじり」よりも、教育理念のあり方こそ深く検討されねばならないのではないだろうか。

(平成17年12月19日 産経新聞掲載)

母、それはこの世の愛のオリジン

 少し昔になるが、東京都中野区で父親の不在中に、母子四人全員が侵入犯に刺殺されるという事件があった。子供は五年生を筆頭に全員男の子であった。私の身近な人間が事件の前年に、この長男のクラス担任であったという事情もあり、今もこの事件を忘れることができない。
賊は物盗りではなく、精神的に異常を来した者であったらしい。
五年生の男の子は、全身を傷つけられながらも、二人の弟を助けようとしたのであろう、電話をとり一一〇番した。「中野区白鷺一の一」そこまで言って彼の声は途切れた。電話中に背中を深く刺され絶命したらしいのである。
 事件の報に接して、この男の子の在籍する小学校の校長が駆けつけたが、正面玄関を警察官が警備していて入れない。
 校長も冷静さを失っていたのであろう、「馬鹿野郎、わしは校長だ」と警官を押しのけて中に入ろうとした。警備に当たっていた警官はいずれも屈強な者たちだったから、老校長の力で押し入ることができる筈もない。
 警官に一人が叫ぶように言った。「そうではないんです校長先生、中にお入りできるような状況ではありません。ご覧になったら先生の命に関わります」。殺害現場は、それほどひどいものだったらしいのである。

素手で立ち向かった母親
 母親は全身に数十カ所の傷を負っていた。しかし詳しく調べてみると、その傷はすべて体の前面、特に腕や手のひらに集中していた。背中をはじめ体の後ろ側には一つの傷も認められなかった。不謹慎な表現ではあるが、体の後ろ側はまことに美しいものであったという。
 彼女は三人の我が子を守ろうとして、「女ながらも」徹底的に抵抗したのである。咄嗟のこととて「武器」を取るいとまもなかったろうから、彼女は素手で犯人に立ち向かった。
 この話を聞いて、「俺がその場に居合わせたら」と思わない男がいるだろうか。 父親が居合わせたら、もちろん彼は果敢に抵抗し、賊を圧倒したに違いない。私のような者でも、必ず命がけでこの四人を救出すべく立ち向かったと思う。
 だが咄嗟の場合、我々男はこの母親のように捨て身の抵抗に徹することができるであろうか。私はここに母性の偉大さ、もの凄さを痛感せずにはいられない。
 「女は弱し、されど母は強し」と言うが、そんな諺など吹っ飛んでしまうほどの母性の凄さを、私はこの事件から感じ取るのである。

子育てに専念する尊さ
 そもそも子供は、母の肉体と一体だった者である。その因子を形成したに過ぎない父親とは異なり、母にとり子供は、我が身そのものにほかならない。それゆえにこそ、母性は、これほどに気高く美しいものであろう。
 考えてみれば、母親から放射される無際限の愛、報いられることを期待せぬ惜しみなき献身こそは、この世の愛なるものすべてのオリジンなのではあるまいか。
 男も人を愛するが、それは幼き日に母から受けた深い愛の残照に過ぎないのかも知れぬ。 平塚らいてうは、「元始、女性は太陽であった」を述べたが、女性を太陽をすれば、男はその光を反射して輝く月に過ぎない。まさに母こそは、この世の愛すべての根源だと思うのである。
 女性の社会進出が強調される昨今である。反面「専業主婦」として子育てに専念することの尊さは忘れられやすい。「専業主婦」にも新しい光が当てられねばならぬ。女性の社会進出と家事、育児との関わりはどうあるべきか、このあたりを深く考えてみたいと思う。

(月刊誌「旬なテーマ」平成18年2月号(中経出版発行) 男の生きる道/女の生きる道掲載)

ゼロ歳児保育は人間らしさを育成できぬ

 東京・小金井市の小学校に勤めていた頃、理科の先生が職員室に孵卵器を持ち込んだ。理科室では目が届かないので、職員室を選んだらしいのである。中に鶏の卵を入れ電熱で温めるのだが、母鶏がするように、毎日卵をひっくり返してやらなければならない。まだ若く、好奇心も強かった私は、理科の先生と一緒に、毎日この仕事を手伝った。懸命に世話をしたのだが、母鶏の羽の下で温めるのとは違って、雛に孵ったのはたった一羽であった。
あまりの可愛らしさに、私は雛をデスクの上に置いて育てた。ところが大変な事が起こった。ひよこは、どこへ行くのにも、私の後ろにくっついて離れないのである。階段だけは抱いてやらねばならなかったが、やがてそれもひとりで上るようになった。職員室でも教室でも、彼は(後で雄鳥と判明した)私の後ばかり追いかけるのである。

母親の体温を懐かしむ赤ん坊
 卵から孵ったばかりの雛は可愛らしいばかりでなく全く無力なものだから、初めて見た動く者の後を追うようになる。通常それは親であろうから、その後ろにくっついて歩く事によって餌をねだり、外敵から保護して貰うことができるのであろう。これは学問的には「刷り込み」と呼ばれるのだそうだ。
 ひよこでさえそうなのだから、人間に赤ん坊が、母親の体温を懐かしむ事はひととおりでなはい。明星大学の高橋史郎教授は、「抱きしめて、下におろして、歩かせろ」といつも言われる。この「抱きしめる」ことこそ、人間性育成の原点なのではあるまいか。母親の心音を録音しておき、赤子がむずかったときこれを聞かせると泣きやむという話も聞いた、母と幼子とは、余人の溶喙(ようかい)を許さぬほど深く結びついているものらしいのである。
 昨今「ゼロ歳保育施設」増設の重要性がしばしば指摘される。「男女共同参画社会基本法」も制定される中で、女性の「社会進出」の機会はますます多くなった。生まれたばかりの赤子も、養育を施設に委ねざるを得ぬ事情が増えてきているのであろう。
 だが、どんな行き届いた施設でも、ひとりの保育士が複数のゼロ歳児の面倒を見なければならない事情は動かない。母親は盲目的愛とさえ言われるほどの愛情をもって我が子に接するが、保育士とりそれは職業的な責務である。愛情を貪婪(どんらん)に求める子供の利益と、保育士の職業的負担感とは背反する関係にある。日に何度粗相しようとも母にとりその世話は愛に裏付けられた喜びでしない。しかし複数のゼロ際児を預かる保育士にとり、それは喜びに満ちた職務の遂行であり続ける事ができるだろうか。

”他人”にゼロ歳児を預けてよいか
 抱かれ、膝にのせられ、甘え、母の髪を引っ張り、豊かな微笑みに四六時中包まれる中で、子供の優しさや明るさ、人間に対する信頼は育成されていく。高度の専門知識と「生産性」に恵まれた施設ではあっても、その中でゼロ歳児保育は、果たして本当に人間らしさを育成する事ができるであろうか。
 小学生は、家に帰るなり「お母さんは」と母を探す。小学生はそれほどにお母さんが好きなのである。しかし幼児は、そのような欲求を表現する術さえ心得ていない。それだけに、いかに愛と専門知識に恵まれた方々の手によるものであるにせよ、私は他人が複数のゼロ歳児を預かるという事に大きな危機感を抱くのである。
 意外な事だが、外国にゼロ歳保育を行っている国は極めて少ない。我が国のみが、異例と言えるほど積極的にゼロ歳保育を推進しているとすれば、これはいささか問題のではあるまいか。
 女性の社会進出を促進しつつも、幼児が母の胸から引き離されることのない施策は必ず見つかるはずである。どんな方法が考えられるか。来月はこの点を考えてみたい。

(月刊誌「旬なテーマ」平成18年2月号(中経出版発行) 男の生きる道/女の生きる道掲載)

ゼロ歳児保育は避けられないのか

 微笑みでさえ親からもらったものだと私は思う。生まれ落ちた発端から、集団で他人のお世話になったのでは、笑顔でさえ「所属不明」になってしまう。それ故、外国にゼロ歳保育は、あまり見受けられない。しかし我が国では、多くの勤労婦人が、ごく普通の事として、我が子をゼロ歳保育に付託する。何故なのだろうか。
 私が中学校代用教員になったのは五十年の昔である。その頃離婚する夫婦は極めて稀であった。しかし今は違う。生別は決して珍しい事ではない。そのような時、最初に直面するのは経済問題である。
 女性の場合、慰謝料などはもらえず離婚するケースがほとんどである。「別れてくれさえすれば良い」ということで離婚に踏み切るのであろうが、四十前後の女性を受け入れる職場がない。年功序列賃金体系が、「高年齢」の労働力の受け入れを阻んでいるからである。
 結局スーパーのレジ、そのほかのパートに従事する事になる。しかし時給は八百円にも達しない。八時間働いても、月の収入は十五万程度である。家賃を払えば、一人が生きていく事され難しい。まして子供を抱え、その教育費まで支出しなければならないのだから、窮状は想像を絶する。 職を捨てられない女性たち結婚でさえ、未来にどんな破局が待っているか知れない。夫が死ぬ事だってある。結局若い女性は、現在の職業をそのまま維持しておかなければならないのである。だから、たとえゼロ歳保育に我が子を委ねるとしても、職を捨てる事だけは避けるのである。
 平均寿命が著しく伸びている。子育てが終わって五十歳だとして、女性はそれから少なくとも三十年を生きなくてはならない。
 三世代同居というような時代なら、家の中に様々な生き甲斐も見いだせたであろうが、子供が外に出て行った後の三十年をどう生きるかは、深刻な問題である。この意味でも、職業は維持しつつ子育てを続けるという考えがごく自然に生まれてくるのである。
 時代風潮もあって、社会進出に対する女性の欲求は強い。人口減少の時代であるだけに、世の中も女性の優れた労働力を求めている。
 しかしだからと言って、生まれたばかりの赤子を親元から話して良いというものではない。何か良い方法はないもでであろうか。

専業主婦は卑しい生き方か
 一つには、我が国の年功序列賃金体系を改める事である。これは、同一労働同一賃金という原則にも反する。年齢によってではなく、労働の質を強度に応じて給与を支払うというシステムに改めることはできないものであろうか。それができれば、労働力に流動性が生まれる。学校の場合、指導力のない教員を罷免しても、彼らに再就職の可能性が生まれる。事実、大工、左官、とび職などは、このような原則で賃金を獲得している。日本経済活性化のために避けて通れない道だと思うのだが、直ぐにはなかなか難しい問題であろう。
 私にもう一つのアイデアがある。それは育児休暇を五年間、できれば十年間程度認める事である。もちろん無給で良い。子育てが一段落した段階で、休職に入った時期と同一の給与で、職場への復帰を認めるのである。これが実現すれば、ゼロ歳保育は激減するのではないだろうか。私の学校では、すでにこれを実施している。
 ところで、女性が家事を生涯の生き甲斐とする事は、卑しい生き方なのであろうか。昔は「良妻賢母」という言葉があった。今ではすっかり死語になってしまっている。代わって「専業主婦」なる言葉が生み出された。しかし「主婦」は「業」であろうか。 これを職業の一種として分類せねば気が済まないというあたりに、ある種の蔑視が潜んでいるように思われてならない。

(月刊誌「旬なテーマ」平成18年3月号(中経出版発行) 男の生きる道/女の生きる道掲載)

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