2019年度 学校通信「藤棚」

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2019(令和元)年375号
今、文教行政に望むこと

 萩生田文部科学大臣の決断により、大学入試の英会話力テストを、民間教育機関に委託するという、陳腐極まりない改革案は撤回された。久々に、受験生と日本の未来を思う実力派大臣の裁量に接し、心から敬意を表したい。その毅然たる生き様は、教育のみでなく、日本全体の未来を明るくするものとして瞠目に値する。
 民間教育機関は、それぞれ大きな役割を果たしているが、高校教育の無償化が、安倍内閣の手によって実現されようとする今日、生徒とりわけ受験生が、学習塾、予備校に、高額な経費を投入している事実に、公私を問わず、我々学校教職員は、自らを厳しく反省しなければならぬ。
 冗談だと思って聞き流してもらいたい。保護者の教育費負担の減少を考えて、国家が莫大な教育投資を行った末に、生徒ひとりひとりが、年間100万円に達する、塾、予備校に金を払うくらいなら、いっそ、公立も私立も、学校など廃止して、希望者全員、学習塾に通うことにしてはどうか。保護者の負担は、それでも、今よりそれほど多くにはならないのではないか。
 勿論これは冗談である。学校には、学校でなければ果たす事のできない使命がある。
 しかし、我々学校教師は、教え子のひとりでも予備校に通っていると知ったら、「自分の指導のどこかに、足りないところがあるのではないか」と、厳しく反省しなければならない。
 私には、自分が組んでいるゼミ生の1人が、予備校に通っていると知って、一夜眠れなかった覚えがある。ゼミ中に居眠りするので、尋ねて分かったことである。
 学校と予備校、「二足の草鞋」は、どっちつかずになる危険がある。在学中の通塾は止めたのだが、既に、百万を超える学費を先払いしている実状もあって、彼を引き留めることはできなかった。その年も、翌年も、彼は進学できなかった。「二浪」の後に彼が成功したことを期待している。「何しろ俺は四浪だったからなあ」
 恥を言うと、私が進学できなかった本当の理由は、当時、「進学適性検査」と呼ばれた知能テストで、文科は27点だったが、理科が0点だったためである。全国で、ただ1人だそうだ。しかし翌年は、文理合わせて60点、北大なら、優に合格できるランクであった。だが、腎臓炎のため、進学を断念せねばならなかった。これが「四浪」の本当の理由である。
 大学入試に関して、英検、その他の民間教育機関を活用するというのが、当初の方針であったが、しかし、田舎の高校生はどうなる。小笠原や八丈島はどうだ。
 テスト会社の秘密保全は大丈夫か、それに、なにしろ金がかかる。萩生田文科相が、勇断を以て、方針を緊急中断した理由である。
 「論述テストを加えたい」という話がある。これは、ある有力な民間有力機関自体が、「遠慮」した。
 なんでそう、猫の目のように、大学入試制度を変えなければならないのか。予定しているのは「もの凄く短い作文」だそうである。それでも大変だから、「民間教育機関」に「お任せ」したいと言う。
 大学の入試だ。学者諸君自身が、苦労して採点すれば良い話ではないか。「大変だから民間教育機関に」と言う。少しおかしいのではないか。
 大学入試に、それほど凝る必要はない。作文など、「下級教育機関」(我々を指す専門用語)でも指導しているし、大学入学後にも、指導すれば良いではないか。
 「本務を下請けに」出していたら、大学自体が、「鼎(かなえ)の軽重を問われるぞ」と、言わなくてはならない。高等学校、中学校でも、どしどし指導する。協力し合って、頑張って行こうではないか。
 私が、北海道教育大学札幌分校に入学したのは1954年である。国立大学の入学金は500円、授業料も、月額500円であった。大卒の初任給が一万円だったから、ひと月の給料で二年間近くの学費が、賄えた事になる。
 一々例を挙げることは控えるが、今の国立大学の学費は、余りにも高いのではないか。私立大学は、さらに高額である。
 それなのに、英語に関しては、民間機関のデータが活用されるとすれば、多くの生徒は、これも受けることになる。「教育機関栄えて家計亡ぶ」という事態が生まれはしないだろうか。
 文科省に尋ねたいことはほかにもある。今、夏休みさえ縮める「密度濃い学習」が行われている。かの「ゆとり教育」は、一体どうなったのか。変更するなら変更するで良い。しかし、文科省は、今でも、あの悪名高い「ゆとり教育の正当性」を理念として維持しているのか。文科省のエリート諸君と共に、じっくりと考えたいものである。
 野党の諸君は、しきりに憲法改正反対を主張する。それはそれで立派なことである。しかし私には、諸君の動きが、旧社会党左派に先祖返りしているように思えてならない。
 憲法改正は国家の根本問題だから、田舎校長の出る幕でない事は承知している。
 しかし、これだけは考えて欲しい。幼稚園児の身体的発達は、昔の小学校二年生に近い。六学年女生徒の、すらりと伸びた身長に、ランドセルは不自然である。
 中学校一貫部の、先取り指導の末に、高校三年生が学ぶべき事項が、必ずしも明確ではない。
 「六三三制」そのものが、根本的改革を迫られているのではないか。
生徒諸君は、揺れ動く入制度改革などに惑わされてはならぬ。大切なのは、国語と英語、それに数学だ。自らの進路に合わせ、確固たる学習計画を立て、頑張ってもらいたい。
 昔は、私の時代の「エリート中学校」の卒業生であっても、大学に進学できた者は、四割であった。
 諸君には、学び続ける可能性が保証されている。遊んでいる暇などない。英語と読書、それに数学、または選択科目の実力蓄積に、力を尽くすのだ。諸君の若さと可能性が、私には眩しい。

 

2019(令和元)年374号
異常豪雨との国民の戦いの素晴らしさ

 異常な雨である。地球の温暖化が進み、海水の温度が高くなっている。発生する水蒸気の量も著しく増え、それが、これまで例を見なかった豪雨の原因になっているらしい。災害の度に伝えられる風速も異常に強い。軽々しく誰をも非難するわけには行かない。
 このところ、政治の世界で、言葉尻を捉えるやりとりが活発である。
 河野防衛大臣が、「私は昔から雨男と呼ばれてきた」と言えば、野党が「不謹慎だ」と非難する。彼は、救援に当たらねばならぬ自衛隊の責任者としての自覚をユーモラスに述べたのであろうが、政治家には、悲しみの中でもユーモラスなセンスを期待したい。
 文科大臣が、「受験生は、身の丈にあったところで頑張って欲しい」と述べたら非難に曝される。
 柴山、萩生田と「実力大臣」が続いて私は心強く思っていたのだが、萩生田氏の、この言葉さえ非難されるとすれば、田舎校長の私などは、「いつから政治は言葉尻を捉えることがメインテーマになったのか」と、慨嘆を洩らしたくなる。
 東大 早稲田のみが大学ではない。我が狭山ヶ丘も、いわゆる進学校ではあるが、私は常々、「難関だけが大学ではない。それぞれ、『身の丈に合った』ところで全力を尽くせ」と、生徒に語りかけている。「敵を知り己を知らば、百戦危うからず」との諺もある。たじろぐような男ではないが、萩生田氏の文部行政に期待したい。
 むしろ野党は「コンクリートより人」とのキャッチフレーズで、八ッ場ダムの建設に反対していたことを想起すべきである。私は前上田知事と親しかったが、彼は、野党の出でありながら、一貫して、八ッ場ダム建設の必要性を強調していた。
 幸い、八ッ場ダムは完成し、この度の水害に大きな役目を果たした。「八ッ場」は、この先も大きな役割を果たすことであろう。
 冒頭に述べるべきであったが、水害で被害者、特に、亡くなった方もおられる事は、痛恨の極みである。砂漠の国に比べ、多雨の日本は恵まれた国ではあるのだが、異常気象は、この先も続くだろうから、国全体としても、生活者個人としても、豪雨、水害、山崩れにはしっかりと対応しなくてはならない。
 被災地を見舞った大規模停電は、文明がいかに脆いものであるかを痛感させた。原発を回って巨額な賄賂に汚れた電力会社もあるようだが、残念な話である。独占企業であるが故のたるみなのであろうが、与野党の論議の中から、電力に競争原理を取り入れる方途を策すべきであろう。日本式建築が、強風に弱いことも痛感させられた。今後は、強風に強い家屋を建設することが求められる。理系或いは、建築分野に進学する諸君に期待したいところである。電柱が風に弱いことにも驚いた。都市部では、地下に巨大な通路を設け、その中に一切のガス、電気等を配置すべきであろう。
 水道の断水にも驚かされた。今後は、緊急事態への対策が、生徒諸君の明日に求められるのではないか。
 実は私も、水害に遭遇したことがある。27歳の時であった。低地の川の畔の、家賃千円という借家であった。六畳の部屋に、三畳の台所だけという家であった。便所は、家の裏に穴を掘り、厚板二枚を渡しただけという代物。水は30メートルほど離れた所にある湧き水。米は、ここでといだ。周りは草原、ここに生えている蕗を切り取り、皮も剥かずに身欠きニシンと一緒に煮て食ったが旨かった。
 実は、ここに暮らした四ヶ月が、私にとり、生涯で一番幸せな時だったのである。
夢は豪雨によって破られた。バイクで映画を見に行き、帰って来たら、家の周りの低地は、水に囲まれていたのである。僅かに座敷のある北側だけが少し高くなっていたので、窓を開けて入った。どうも玄関の下から激しい水音か聞こえる。掘っ立て小屋だから玄関は土間である。
 棒でつつくと玄関の土間は容易く崩れ、下には激流が渦巻いていた。この後、鉄砲水が来る可能性もある。ビニールカッパを着たまま、裏窓近くの少し高くなったところに林檎箱を置き、そこに座って、朝まで起きていた。
 修羅場経験のない私ではないが、あの時の恐怖は、今も、しっかり記憶している。
 低地の向こう側に国道が走り、それに沿って「空知川」が流れていた。全国有数の大河である。この大河と国道の間に堤防が走り、国道を守っていた。
 明るくなり、堤防に上って見たが、空知川は、向こうが見えにくいほど、幅広くなっていた。
 堤防に上ってみたが、大河は満々と水をたたえ、静かに流れているのだが、堤防全体がビビビと静かに振動しているのである。あれが決壊したら、助かる見込みは先ずない。
 その堤防決壊に遭遇したのだから、この度の被災者の恐怖は、どれほどのものだったろうかと思う。命がけで救出に当たった自衛隊、警察、消防の皆様に深く深く感謝と敬意の誠を捧げたい。
 生徒諸君も、やがて結婚し、家庭を築かれる事と思う。お願いしたい。住居を定めるときには、私のように無謀ではなく、そこに予想される危険を洞察し、どうか安全なところに居を構えて頂きたいのである。
 家屋を倒す突風が襲う危険も、これからは予想しなくてはならぬ。日本式家屋は、異常温暖化が予想される未来には、少し弱いかもしれぬ。
 国も自治体も、被災者を守るが関東全域を守る力はないかも知れぬ。「自助協力」これは亜細亜大学の校訓だが、明日の日本には、大切なのではないだろうか。

 

2019(令和元)年10月 373号
動物愛護の思想的限界

 豚の飼育は、食用としてばかりでなく、輸出産業としても重要な分野である。それが「トンコレラ」に冒され、莫大な数を「殺処分」しなければならないという。畜産業の危機も大変だが、豚も可哀想だ。豚が、どんなに可愛らしい生き物かは、今の中高生は知らないかもしれない。
 「トンコレラ」の原因は、野生の猪だそうである。やむを得ずワクチンをうつそうだが、それは、国際社会での不安を呼び、豚肉輸出にマイナスの影響を生むそうである。
 私は、信濃大町に、小さな山小屋を持っているが、至近距離でカモシカに遭遇したことがある。秋が深まると、冬眠のため、肥らなければならない熊がゴミ箱を漁りにくる。玄関前に50匹ほどの猿が屯していることは、珍しくない。別荘地だから、文句も言えないが、札幌の熊は、市街地に現れ、店に入り込んだりしたのだから、事は深刻である。
 少し昔は、捕獲して、山奥に放したりした。今回は射殺したそうである。
 鹿は可愛らしいが、木の皮を齧り、森を害する事、甚だしい。可愛い、などとは言っていられない。鹿は、食っても旨いから、射殺して、食用に供すれば良いのだが、狩人が少ない。狩猟免許を取り、山中で、射殺した鹿を、皮を剥ぎ、肉を持ち帰る女性もいるそうである。「鹿女」と言うが、いかんせん鹿女の数が少ない。結局鹿は、山林や農村を、荒らし放題である。
 国に野生動物に対処する、明確な姿勢を保って欲しいが、人手不足の上に、「動物愛護の思想」に対する気兼ねもある。
 猪は「トンコレラ」を感染させ、豚にも、養豚業者にも、国家にも、莫大な損害や迷惑をもたらす。
 日光の猿の横暴は、凄まじいものであった。猿は必ず数十匹から百匹で行動する。餌をやらねば、野生の猿の毛並みの美しさを保つのだが、ひとたび餌を与えると、行動が一挙に変化する。
 いろは坂のあたりで、可愛いからと車を止めたら、何匹かが、ボンネットや屋根の上に上り、えさをねだる。ボンネットに、「電動」アンテナが備え付けられていた時代だが、アンテナを上下させても、小猿が、片手で掴まって遊ぶという事もあった。
 日光市街の商店の被害は、凄まじいものであった。「猿君たち」は、平気で商品を持ち去る。犬を繋いでも、猿君達は、綱の長さすれすれのところまで近づき、悠々と商品を持ち去るという実状であった。
 いろは坂には、野生馬も現れた。馬は可愛い。私は車を止めて窓を開けたところ、馬君は窓から、長手首を突っ込んで来て餌をねだり、閉口したことがある。
  志賀高原でのスキー教室で、ホテルにも夜間、猿が侵入する危険があった。「必ず窓を閉めろ」「翌朝、隣の布団を確かめろ。隣に寝ているのは人間でないかも知れんぞ。」と私は生徒を驚かせたものだが、日本全体が、野生動物に舐められていたのかも知れない。農園を荒らし回る獣について、「彼らにも生きる権利がある。食べるのに任せ、その損害は、国が負担すれば良い」という珍論さえあった。私は、「人間も、その保護せねばならぬ動物なんだがなあ」と苦笑したものである。
 北海道ヘ、スキーに行ったとき、二匹のキタキツネに会った。与える餌がない。翌朝、餌を用意して、食べさせる相談をしていたとき、ロープウエイの会社の社長らしい人に叱られた。「キタキツネは、肝臓をどろどろに溶かす病原菌を持っている。これに冒されたら、治療できる医師は、道内に数人しかいない。キタキツネと人間は、絶対に共存できないのです」と叱られた。
 人間が、動物の生活領域に入り込んできているのだから、農園を荒らされたり、熊や猪、それに鹿の被害に遭うことがあってもしかたないのだという意見がある。興味深い見解だとは思う。
 しかし、昔は、大自然の領域そのものが、熊や狼、蛇、猪などの生活領域そのものであった。力のない人間は、その中で、彼ら野生動物の危険に怯えながら、木の上などに眠り、細々と、その存在を守り続けていたのである。
 人は、その優れた知能によって火を発明し、集団で野生猛獣と戦うことを覚え、莫大な時間を掛けて文明を形成するに至ったのである。
 北海道の開拓当時、熊より恐ろしいのは蝦夷狼であったかも知れない。蝦夷狼は40匹程度の集団になって農家、農場を襲う。一度で家畜すべてを失った牧場もあるそうだ。樋口大尉、私は、そう記憶しているが、襲ってきた狼を軽機関銃の一斉射撃で全滅させたそうである。今日、北海道に蝦夷狼はいないが、もしいたら、その恐ろしさは熊の比ではない。若しかすると、道内での登山は行いにくくなっていたかも知れない。
 「動物愛護」を唱えながら牛肉を食うのが人間の悲しさである。豚も羊も、とても旨いが、彼らは、一歳の頃に食用に供されるのだそうである。
 外国の人が、鯨猟に反対するが、鯨は、莫大な量の小魚を食う。小魚等の資源保存のためにも一定量の鯨猟は必要であるとも聞く。
 観念的動物愛護論ではなく、自然、動物、人間の共存とは、人間社会を守りつつ自然を大切にすると言う事でなければならないのだが、このあたりは、生徒諸君にも、考えて貰いたい。
 アマゾン川流域は、世界最大の森林だが、これが滅びるとき、温暖化どころか、地上の酸素量そのものさえ不足するに至る危険があると私は思う。
 最近若い人たちの中に、温暖化を防ぐための活動が活発である。私などは、ともすればのんきになるが、緑の保全ということは、人類の存亡に関わる大問題である。
 鹿は、まことに可愛いが、木の皮を齧って樹木を駄目にする事がある。彼らから森を奪わないためにも、適度な数に保つことが必要なのである。自然と人間、これを深く考えて見よう。
 

 

2019(令和元)年9月 372号
ひそかに訪れる秋の気配に

 「今年は、蝉の声に力がないなあ」と思っているうちに、秋の気配が近づいてきた。先日、山梨を訪れたとき、山深い地域だからであろうか、昔ながらの、元気な蝉の声を聞くことができた。蝉さえおとなしくなる猛暑なのかも知れぬが、うち続く気候変動が憂慮される。
 報道によると、水難事故が多かったようである。交通事故もかなりな数に上る。
 本校生徒からは、水難事故、交通事故の話を聞かない。離岸流による被害もない。何よりのことである。中学生諸君、高校生諸君の用心深い生活姿勢に心から敬意を表する。
 私は熱帯の国が好きだが、この地域の人々は、四季というものを知らない。地軸が傾いていることが季節発生の原因なのだが、北緯、南緯、共に約23.5度の範囲内では、事実上季節の変化は起こらない。温帯に住む我々は、春の気配、猛暑の夏、味わい深い秋、身の引き締まるような冬を味わう事ができる。温暖化が、この四季に影響を及ぼしているようだが、炭素燃料の消費を控え、緑深く味わいのある地球環境を守って行きたいものである。学園祭も近い。安全で楽しい「狭丘祭」を楽しむ事にしよう。
 大学進学の準備は、三年生だけでなく中高生全体が考えておかねばならないことである。テレビロケで熊本を訪れた時、校庭の一隅に、草に埋もれた石碑があるのを、本仮屋さんが見つけて来た。若いから、珍しいものを見つけると、直ぐ私に尋ねてくれる。「先生、これは何ですか。」
 草を分けて見ると、「秋はふみ 我に天下の志  漱石」と掘られている。
 秋は落ち葉を踏む というのと文を読むというのをかけた言葉なのであろう。帝大を出ているだけに、年若き漱石にも「天下の志」があったのであろう。私と本仮屋さんは、暫く若き日の漱石を思って感慨に浸った。
 そうだ。「秋は文」だ。若く、前途ある諸君には英語や数学だけでなく、読書する心を大切にして欲しい。 私は、高校一年の時、先輩に勧められて、ウエルズの「世界文化史大系」を読んだが、まだ幼く、その本当の深さを理解することができなかった。後年、それが、世界の未来を物語る素晴らしい文献であることが分かった。当時の先生は、そこまで立ち入って指導してくれるというようなことはなかった。本校の理科指導陣は、きら星のような俊才の集まりである。諸君自身が、個人であれ、小グループであれ、このような俊才の指導を受けやすいような場を作ってはどうかと思う。
日韓友好を深めよう 
 徴用工問題 慰安婦問題等をきっかけに、日韓関係が著しく悪化している。
日韓併合を契機に、朝鮮人は日本人とされた。当時の政府は、京城に京城帝国大学を作ったし、陸軍士官学校を卒業した朝鮮人の陸軍少将もいた。台湾の台北帝国大学と並んで、「植民地」に帝大をつくったのは、世界で日本くらいのものではないだろうか。台湾の人々は、今も親日的だが、韓国は少し違う。徴用工問題などと言うが、韓国の前政権との間で解決済みだったのが、現政府の手により、悪くなっている。いずれも、七十年以上昔の話だが、当時、我が国の安倍総理は、生まれてさえいなかったのである。なかなか難しい隣国と言えるかも知れない。
 トランプ氏の北朝鮮に対する「友好精神」は、北の支配者に、「そうか、アメリカに届くミサイルをトランプは、そんなに恐れているのか」という印象を与えたのではないか。「中距離ミサイルなら良い」と認めているのだから、北の支配者は、一層確信を強めていることであろう。
 北の民衆は、肉や魚など、充分食べているのだろうかと、私などは思うが、ミサイル一基打ち上げるのに、米、肉、魚など、どれほど買えるのだろう。かえってミサイルは、彼の存立基盤を危うくするのではないだろうか。
 北朝鮮は、大東亜戦争の末期、日ソ不可侵条約を一方的に破棄したスターリンのソ連によってつくられた共産主義国家である。当時は国連軍がいたので、38度線が南北の国境になった。
 北朝鮮は、突如大軍で38度線を越え南に進入した。これが朝鮮戦争である。  奇襲だったから、マッカーサーの国連軍は、敗退に敗退を重ね、釜山から追い落とされようとした。私の高校三年の時である。
 北の勝利となりそうなところ、天才マッカーサーは、上陸が絶対に不可能とされる浅瀬の仁川に奇襲上陸し、情勢は一変した。
 その後も戦乱は続き、国連軍が北に攻め上ろうとするとき、前年に革命を終わった中華人民共和国が、数百万の規模で、「義勇軍」と称して朝鮮に攻め入った。
 以上、朝鮮戦争の概略を述べた。
 韓国、北朝鮮、アメリカの関係を考えるとき、このアウトラインだけは忘れてはならない。
 マッカーサーの指導に任せていれば、情勢は一変しただろうが、副大統領から、ルーズベルト大統領の死の折に、合衆国憲法の定めにより、副大統領から大統領に昇格したトルーマンは、マッカーサー将軍を罷免した。
 このような国際情勢の推移を知り、巨視的観点から分析するのでなければ、朝鮮情勢は分からない。
 それにしても、韓国の人々との友好関係だけは長く維持したいものである。

 

2019(令和元)年7月 371号(終業式号)
夏に燃え、夏を楽しむ

 40日授業がない等というのは、何と豪華な話だろうか。外国では、夏休みが、ふた月というところが多いそうである。驚く人も多かろうが、これは「学ぶのは本人」という前提に立っているからだと思われる。
 日本の中、高等学校は、当否はともかく、教師中心の授業が原則になっている。その利点も多かろうが、私は「自分中心の積極的な学習」という中でこそ、効率的に実力を身につけることが出来ると確信している。夏休みは、諸君を解放するのではなく、この積極的学習に没入して頂きたいとの願いから、制度化されたものだと私は思う。師弟共に、自由でのびやかな、積極的研究、学習に取り組むことが、精神衛生にも好ましい結果をもたらすと、私は確信する。
 一方的な授業では、本当の実力はつかない。自らが中心となり、足らざるところに向けて学習努力を集中する、これが最も効率的な学習方法なのである。
 休みになると、教師の長期ゼミに参加したり、予備校に通ったりする人が増える。分からなくはないが、私なら、「教わる勉強」は早々に切り上げ、書斎若しくは、本校の中央図書館に立てこもる。そこで、自分なりの主体的学習を展開する事が、最も効果的なのである。
 自学自習、これが栄光への登竜門だと知れ。

山野に精神を深め身体を鍛えよ
 運動部で体を鍛えるのは、素晴らしい事だ。弁論部主将として活動したのが、私の高校時代だが、知識中心の生活の脆さは知っていた。猟師が、「熊を捕るならここ」というピンネシリ岳に、部員中心に20人で登ったのも、その「文人的弱さ」を熟知していたからである。テントをかついで陸路25キロ、帰って数日は、歩けずに、家の中を這って歩いた。
 運動部の諸君は、この休みを、星を見つめたり、夜露に濡れた草を、素足で踏んだりすることにも使って欲しい。
 「文人諸君」は、この際、海に山に、その肉体を鍛える事に用いてはどうか。
 また、学校は休みなのだから、詩集、名作等に触れる機会としても活用して欲しい。平素の高校生活、中学生活では出来ないことのために生かす、それが夏休みなのだ。
 私的な話だが、私はフェリーで小樽に渡り、北海道の山野をドライブしてみようかと思う。

夏は危険がいっぱい 身を守る術を心得よ
 世界一と言われる日本の治安も、悪くなってきている。
 「良家の子女は、日没以後の一人歩きは慎む」これが、我が民族の伝統である。特に今は、車社会だから、悪人達に、中に引きずり込まれたりしたら、人生のすべてが転換すると思わなくてはならない。親たちも、最近の世相の悪化に楽天的でありすぎると私は思う。
 私は男だが、日没以後に、徒歩で一人歩きするということは、若い頃から慎んでいる。最近は、特にそうである。
 女生徒は、学校への行き帰りにも、集団で行動する事が望ましい。裏通りには、諸君には想像も出来ない危険が一杯である。
 最近は、意味もなく刃物を振り回す犯人がいる。男子も、安全には常に配慮していなくてはならない。
 エアコンが普及し、窓を開け放って寝るというようなケースは少なくなったが、それでも、鍵を掛けていない玄関から殺人者が侵入し、凶行に及んだというようなケースが少なくない。不用心な話である。鍵は、その都度確実に閉めるよう心がけなくてはならない。

海も山も素晴らしいが危険がいっぱいでもある
 「崖からの転落」と言うような報道が後を絶たない。軽装で山に入り、冷えと空腹で疲れ果て、転落したというような報道もある。海であれ、山であれ、充分な装備、準備がなければ近づいてはならないのだ。
 月の輪熊の出没ということは、先ずあるまいが、最近ではイノシシ、鹿の危険もある。 海では、昔はあまり見られなかったクラゲによる被害も報告されているし、状況によっては溺死の危険もある。
 いつも語る事だが、離岸流には、特に気をつけなくてはならない。
 砂浜は遠浅が続くが、岸に近づいてかえって深くなると言うケースもある。
 また、海には、悪質なグループが徘徊するというケースも少なくはない。私は、できれば、家族と共に同行することが望ましいと思うが、若者だけでの行動の場合は、特段の用心深さが必要である。

秋風立つ頃、全員元気に再会しよう

 

2019(令和元)年7月 370号
強さと逞しさを失った現代人の行く手

 親が、夫婦揃って子を虐待する。母が命がけで庇わねばならない場合にも、夫(父)と共に虐待に加わる。多年引き籠もりを続け、筆舌に尽くしがたいほど恩を受けている高齢の父や母に暴行を恣(ほしいまま)にし、果ては殺害に及ぶ。夫が力のない妻に暴力を振るう。これでは人間どころか、獣にも劣る振る舞いである。
 考えさせられるのは、私たち日本人が、どうしてこれほど耐性のない、我慢する力のない人間に育ってしまったのだろうかと言う事である。
 アフリカや東南アジアの人々は、そうではないのではないか。生徒諸君は、自らを、どのように認識しているだろうか。
 思うのだが、諸君も、諸君のご両親も、これまで、どこで、どのように耐える訓練を自らに課した経験があるだろうか。
 貧乏を自慢するのではないが、私は、大学四年の秋の頃、死に勝ると言って良いほどの貧しさを体験した。私は「学生運動」の世界で、人に知られた人間であったが、生活は苦しく、政治活動は止めて、アルバイトに専念したいと考えていた。しかし、北海道学連の委員長は、誰にでも勤まる仕事ではない。結局、仲間が「小川義男君後援会」というのを作り、一口50 円ずつ集めて、月額7千円を私に届けてくれる事になった。珍しいことではない。後に全学連委員長になった唐牛健太郎くんの生活費は、重役の息子であった、灰谷慶三くんが負担していた。灰谷くんは後に北大の文学部長になった人物である。若くして死に、今は世にない。
 当時の全学連の活動は、原水爆禁止と戦争防止に終始していたと言える。そこに、あるグループの思想的分断工作が持ちこまれ、後援会の担当が、反小川派の人物であったため、後援会の活動は破綻した。当然、私への支援はゼロになった。そこへ姉が結核で倒れ、手術の末に急死した。大工の父には、仕事が一切ない時代であった。
 人間、本当に苦しいときには、10円の金も貸して貰えぬものである。あの時が私の一番苦しい時であったろうか。婚約者は裕福な家庭の娘であったが、彼女に苦衷は語れない。
 近所の人々に助けられ、葬式だけは何とかやりおおせたが、あの時の辛さ、苦しさは、今も忘れない。
 「強さ 逞しさ」を育てるものは、逆境とは限らないが、逆境が強い人間を育てるというのも否定しがたい事実である。  その意味では、現代、高校生は、恵まれすぎた環境に育ってきたと言える。私が生徒諸君に、ディズニーランドや、お膳立てされている炊事遠足などではなく、山登りを課しているのは、そのためである。
 もっとも、高校一年生には、入学当初に赤城山荘に宿泊し、鍋割山登山をさせるのが、数十年前の本校の伝統であった。
 しかし諸君は、登山以外に重い荷物を持った経験は、ほとんどないのではないか。部活動の凄さは、このあたりにある。
 吹奏楽部、彼ら、彼女らが、外部演奏のため「大荷物」を運ぶ姿に、私は感動する。式場準備に彼女らが、男子と共に活動する姿は「これが女か」と、目を疑わせる程に「勇ましい」。ここに、吹奏楽部の良さと強さの本質があると私は思う。
 運動部が、自らを鍛えるのに、厳しい集団であることを知らぬ者はない。あの鍛え抜いた筋骨は、生涯の宝となるであろう。
 文化部、例えば書道部は「静」の典型と思われがちだが、部活動を進めるためには、相当量の作業が必要となる。これら全体が、諸君を、「強い人間」に育てるのである。
 しかし、何と言っても、中、高校生を鍛え上げていくのは、「学問」であろう。
 学問で成果を上げるには、莫大な忍耐が必要になる。昔は、眠さとの戦いが、よく指摘されたが、今日ではテレビやゲーム、スマホなどが学問を妨げる主敵として登場する。
 高校は義務教育ではない。やめたければ、明日やめても、どこからも文句を言われない教育機関、諸君は、そこの生徒と言う事になる。
 中には、通学制の学校を嫌って通信制の「のびやかな学校」に移籍する人もある。折角、努力して、「これほどの高校」に在籍しているのにと私は残念でならぬが、高校は義務教育ではないのだから、そのままやめても、少しも違法性はないのである。
 だが、私は思う。「それで、その生徒は、強い人間に育てるだろうか」と。
高校三年生は、今なら、勉強次第では、どの大学にも進学できる。だが、夏休みが終わり、秋風が吹く頃になっては、その可能性は薄くなる。今だ! 今が、そのラストチャンスなのだ。
 大学には、「門の広い大学」と「門の狭い大学」とがある。入りやすい大学は、卒業した後、社会の多くの分野に進出する上で、容易ではない。「力を尽くして狭き門から入れ」と、私が呼びかけ続けているのは、そのためである。
 豊かな現代、苦労せずに生きられる現代も、諸君が大人になり、家族を抱えて生きて行く上で、安易な世界ではない。
 スポーツに燃えた諸君は、この夏からは、学問、文化に燃えよ。学問中心に生きてきた諸君は、一層厳しく燃えると共に、散歩、駆け足等の形で、体力をも養うことに心がけよ。
 学問も運動も、豊かで安楽に生きてきた諸君を、耐える力のある人間に育て上げる、数少ない手法なのだということを分かって欲しい。
 また、安全にも特に気を配ってな。

         

2019(令和元)年5月 369号
日本は大国であるとの自覚にたって 大型のリーダーに育とう

 学校が発行する各種の文書は、生徒諸君に向けて書かれているスタイルをとりながら、実は、保護者の皆様にもぜひお読みいただきたいのである。だから、諸君が読み終わったら、必ず保護者の皆様にお渡し願いたい。よろしくお願いする。
 日本の領土は必ずしも大きくはないが、その支配領域は極めて巨大なものである。
 日本には6000の島がある。例えば、尖閣諸島は、紛れもなく日本固有の領土であるが、1980年代に国連の調査で、あの海域に莫大な量の石油が埋蔵されていることが分かった。その埋蔵量は、イラクのそれに匹敵するというのだから凄いものである。今日、中国が、あの領土、領域に領有権を主張しているが、これが、国際社会の現実だと言えるのかもしれない。ここに、石油の消費国から産油国に転ずる可能性を、日本が有しているという事実を、確認しなくてはならない。
 白人列強の、帝国主義的領土拡張政策の中で、世界各地、特にアフリカなどはずたずたに引き裂かれたのであるが、まことに悲しいことである。
 領土は大雑把に言って、海岸線から12海里が領海である。1海里は1.852キロメートルだから、12海里は、22.224キロメートルとなる。この範囲は、領海だから、まぁ日本の領土そのものと同じだ、と言って良いだろう。さらにその上に、排他的経済水域というものがある。これも、大雑把に言えば、海岸線から200海里以内が排他的経済水域ということになる。ほぼ370.4キロメートルとなる。
 この領海、および排他的経済水域においては、水産資源、海底の埋蔵資源等、全てが日本に帰属するということになる。莫大な資源産出の可能性がここに潜んでいる。
 「なんだ、海底や水産資源か」と、諸君は思うかもしれないが、実はこの水産資源、海底資源が国家に莫大な利益を供給する可能性があるのだ。
 この領海および排他的経済水域を合わせた面積は、日本は世界第6位である。まさに大国であると呼ぶのに相応しい。
 諸君は、海や海底の持つ可能性を忘れがちであるのかもしれないが、今や世界においてはこの海や海底が、大きな関心の対象となっているのである。
 マンガン団塊というものがある。日本周辺の深海底に莫大に存在するジャガイモ状の、「石ころ」である。
 このマンガン団塊はどうして形成されたのか未だ解明されていないが、ジャガイモ状のマンガン、鉄、銅、ニッケル等の金属を多量に含む塊である。ただし、深海底に存在するので、今すぐに取り出すというわけにはいかない。
 これも日本の海域に多量に存在することが確実なのだが、メタンハイドレートというものがある。深海底に潜むメタンガスのシャーベット状のエネルギー源である。これも、現在の世界の科学技術では、直ちに取り出すということが出来ない。
 諸君は、日本が深海に潜水する技術において、世界有数であるということを、ご存じだろうか。
 実は、その背後には、このような海底資源に対する、我が国家の偉大なる関心が存在しているのだと、私は考えている。
 技術の進歩に伴って、これらを安全、確実に取り出すことが出来るようになれば、それが我が国にどれほど大きな利益をもたらす可能性があるかということは、計り知れない。海底の話ばかりが続いてしまった。
 小笠原諸島の最南端、南鳥島には、莫大な量の「レアアース」が存在することが明らかになった。私の知る限りでは、レアアースは自動車生産になくてはならないものだそうだが、かつてそれは、中国のみに産出すると言われた。中国はなかなか「シッカリした」国なので、レアアースの値段を極めて高価につり上げた。そのとき私は、なんとも暗い気持ちになったものである。南鳥島にレアアースが産出するようになって、本当にうれしい。島が、どれほど大切なものか、諸君も分かってくれるだろう。
 地球上の海は、陸の二倍半ある。地上に比べて、埋蔵されている資源、算出方法等、まだまだ十分に発達してはいない。したがって、世界の大国は、資源の探索を求めて、陸から海に目を転じつつあるのではないかと、私は考える。こういう言葉を用いるのは我が国で私一人だけだが、私は、列強のこのような海に関する関心の拡大を「海洋帝国主義」と呼ぶことにしている。
 洋上に点在する6000の島々は、将来日本の生命線となることは間違いない。外国の侵略から、この6000の島々を守ることは容易ではない。領土、領海、排他的経済水域を守るためには、日本の場合、少なくとも2隻の航空母艦を保有することが肝要かと思われる。
 平和的目的、防衛的目的に局限された航空母艦の保有をも、「軍国主義」だと捨て呼ぶ人々が、今もこの日本には少なくない。その気持ちもよく分かる。何しろ、日本は第二次大戦の主役だったからなぁ。
 しかし私は、「では君たちは、いわゆる純粋に平和的手段のみによってこの6000の島々を守り続けることが、可能だと、本当に考えているのか」と、お尋ねしたいと思う。 このような世界第6位の領土、領海、排他的経済水域を守り続ける上で、その法的位置づけを、深く考え、日本の国際平和主義を守り続ける法律論、政治論はいかにあるべきかと言うことは、諸君に考えてもらいたい。
 諸君の、活動すべき分野は数知れずある。法律論、政治論、医学論にとどまらず科学全般、宇宙論等、解明すべきテーマは果てしなく多い。若い諸君でなければ、研究、推進していくことが出来ない諸問題である。偉大なるリーダーとして育ってくれ。

         

平成31年4月 368号
語尾上げ言葉 語尾伸ばし言葉の低劣

 昔、問答式授業の天才がいた。小学校高等科二年(現、中学二年)しか出ていないのに、その国語の授業は見事なものであったらしい。私は、十八歳で、中学校の英語教師になったのだが、その時の校長、教頭は、彼の授業を参観したことがあるとのことであった。授業の見事さに、高等師範や京大の教授までが弟子入りしたと言うから凄い。
 もっとも、この点は、弟子入りした学者達も凄かったと思う。そのあたりに、我が国初等教育が世界に伍して後れを取らない背景も存在していると思う。
 しかし、この「問答式授業」は、うまく行かなかった。第一、六年生を過ぎると、生徒は沈黙しがちになる。中学生、高校生と、発育するに伴って一層顕著である。私は、芦田恵之助の存在は、その偉大さと共に我が国教育に弊害をもたらしたと考えている。
 子供が、授業の中で積極的に意見を述べたがるのは、小学校四年までである。五年生になると、ぐっと発言しなくなる。社会性の芽生えでもあるのだろう。
 だが、日本の初等教育では、無理矢理にでも発言中心の授業を展開しようとする。だから、研究授業などでは、「台本に基づいて」「見せる授業」を行う場合が少なくない。そのイニシアティブを取っているのは、若しかすると指導主事であるかも知れない。
 「見せる授業」では、兎にも角にも発言の存在することが重視されるから、「ダカラー」、「モモタロウサンハー」などと、伸ばし言葉が、ふんだんに用いられるようになったのである。
 学生運動が衰退していった時期のリーダーは、以前と比べると、質が落ちて行った。「ワレワレハー、アメリカテイコクシュギシャノー アクシツナインボーニタイシテー ダンコトシテー」と言った調子である。その演説は、聞いていて、こちらが恥ずかしくなるほど下手だった。
 その頃からであろうか。一般の会話でも、語尾を伸ばしたり、語尾を上げたりする会話が目立つようになった。「語尾上げ言葉は、人々が自信を失っていく傾向と無縁ではなかったようである。意見を述べている筈なのに、語尾を上げて、相手にその正しいか否かを教えて貰おうとするかのような物の言い方をするのである。
  この頃では、テレビに登場するようなタレントにさえ、この語尾上げ言葉が用いられるようになった。流石にNHKのアナウンサーに、この種の傾向は絶対にない。もともと優秀な連中である上に、NHK内部でも、徹底した指導が行われているのであろう。「さすが天下のNHK」である。
 高校生も、狭山ヶ丘クラスになると、この種の語尾上げ、語尾伸ばし言葉はない。電車の中などで、ふんだんに「語尾上げ 語尾伸ばし言葉」を用いる高校生集団に接触することがあるが、ほぼそれは、その高等学校の社会的ランクに直結しているように思われる。政治家にも、この語尾上げ、語尾伸ばし言葉はほとんど見られない。流石に、修羅場を生きぬいてきた男達、女達である。
 学者は必ずしもそうではない。もっとも、学者も、一流の学者には、この語尾上げ、語尾伸ばし言葉は、見られないようである。
 面接などで、この「語尾上げ」「語尾伸ばし」を用いれば、決して有利ではない。
 但し、この「語尾伸ばし言葉」は演説などをする上では有利である。「従ってー」などと、引き延ばしているうちに、次の言葉を思いつきやすいからである。
 長州人は、「あります言葉」を用いる。「そう思います」と言うよりは、「そう思うのであります」と言う方が、次の言葉を思い出すゆとりが生まれる。旧陸軍は、長州人の山県有朋が、全権力を掌握したので、陸軍全体に、この「あります言葉」を使用させた。当時、小学校でさえ、「ですます言葉」を用いれば怒鳴りつけられた位なのだから、「長州の横暴極まれり」と言うべきであろう。この種、長州の横暴は、無謀な戦争を始めた事に繋がっている。
 但し、「あります言葉」はなかなかに重宝である。私も、時折、これを用いる。
 早稲田大学の創立者大隈重信は、生徒諸君が考えている以上に偉大な政治家であった。福沢諭吉が、その「崇拝者」だったと言う事からも、推察することが出来る。
 彼は佐賀県人だから、あります言葉は用いない。演説もあまり上手ではない。しかし、あります言葉を用いるわけには行かない。そこで彼は、「アルンデアル言葉」を用いた。
 「我が輩は、そのように考えるんであるんである」と言った調子である。
 私は大隈が大好きだし、早稲田には十年間在籍した。大隈の銅像近くのベンチで彼を見上げると、「現代にも、こんな大きな政治家がいたらなあ」と、しみじみ思った。
 話が逸れたが、語尾伸ばし言葉、語尾上げ言葉は、何とかして乗り越えて行きたいものである。
 イギリスでは、下町の英語は、全くといって良いほど聞き取れない。ケンブリッジ大学の近くには沢山の書店がある。そこには学者諸君が集まっているが、その会話は驚くほど美しく分かりやすい。考えてみれば、これがイギリスの「階級社会」と言うものなのかなあと考えさせられたりする。
 生徒諸君も、自らの言葉に気品を保つということに、大きな関心を持ってもらいたい。語尾上げ、語尾伸ばしに、ジェスチャーを加えて面接試験に臨んだりしたら、それはもう、スタートから極めて不利だと覚悟しなければならない。
 気品とは静かさの別名だと私は思うが、我が国には存在しなかった語尾上げ、語尾伸ばし言葉の流行は、民族が自信を失い、相手に依存して日々を暮らすようになった事の象徴ではないだろうか。
 一流ホテルのレストランを訪れたとき、注意すると良い。声高に話す人、語尾上げ、語尾伸ばし言葉に出会うことは、極めて少ないのである。

         

平成31年4月 367号
平成31年度 中高合同入学式
校長式辞(要旨)

「ならぬ事はならぬものです」
白虎隊にも繋がる会津の教育理念
「ならぬ事か」どうかは、行為者自身が判断すべきものだというのが、戦後日本の思想
親が子を虐待死させる時代
虐待されている子供の訴えのコピーを、教育委員会の重い立場の人が、父親の犯人に渡す時代
男と女が成人したら結婚すべきだというこれまでの思想も、 「それは、本人自身が考え、決めるべきものだ」というのが、最近の傾向
男女の結婚離れ、独身主義が広まる中で、我が国の人口は著しく減少している
田園が滅び、都市のネオンのみが華やかなあかりを灯し続ける
大震災 大噴火 大津波 大規模原発事故等から都市を救えるのは田園のみ
離婚の激増 子供の孤立
親や祖父母を殺す傾向
政府は、家庭内における暴力行為も厳しく罰するという方向で、子供や女性を守ろうとしている
子供を虐待するなど、絶対に許せぬ暴虐
家庭内で女性を殴るなど、沙汰の限り
男は、自分より弱い者に、絶対に暴力を用いてはならぬ
だが、それは、これまでの法律でも厳しく禁じられていたもの
我々は、どこかで大きく間違っているのではないか
内部規範と外部規範の問題
私の意見では、規範(道徳)とは、成熟した世代の中で形成されそれが、未成熟の世代に持ちこまれるべきもの
他律規範
規範とは道徳と言い換えることも出来る
「良いか悪いか」、「それは皆さん自身で判断すべきもの」
自律規範
外国ではどうか キリスト教の世界では、大きな道徳規範は、 すべて聖書から生み出される
モーセの十戒 マタイ伝
イスラム世界では、すべてコーラン
日本だけが何故「自律規範」なのか
世界を植民地にしていた白人列強の、植民地支配に抵抗したアジア民族への恐怖
日本の文化、伝統をすべて否定しようとした
日本以外のどこに自律規範の国があるか 、 この際、考えてみることも大切
入学に当たり、読書、考察、論戦の重要性を深く考えて貰いたい

         
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